赤城神社 (富士見村)
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赤城神社 | |
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所在地 | 群馬県勢多郡富士見村赤城山小鳥ヶ島 |
主祭神 | 赤城大明神 大国主命 磐筒男神 磐筒女神 経津主神 豊城入彦命 |
社格等 | 式内社(名神大)・上野国二宮・郷社 |
例祭 | 5月8日 |
赤城神社(あかぎじんじゃ)は、群馬県勢多郡富士見村赤城山にある神社。上野国二宮の論社のひとつ。赤城神社の元宮(山宮)を主張している。
目次 |
[編集] 歴史
- 創建不明
- 大同元年(806年) 神庫山中腹より大沼の南の畔に遷座
- 天正4年(1576年) 里宮(二宮町鎮座の赤城神社)が南方氏によって滅亡
- 慶長2年(1601年) 酒井重忠は「正一位赤城大明神・赤城神社」の改築を幕府に申し出、その工事を完成。
- 年代不詳 酒井忠世によって、相殿に徳川家康公を祀る。
- 寛永18年(1641年) 落雷により全焼した社殿の改築を徳川家光が酒井忠世に命ずる。
- 昭和45年(1970年) 現在地に移設再建。
- 平成18年(2006年) 大洞御遷宮千二百年祭、本殿大修復。
[編集] 祭神
- 正殿
- 相殿
- 徳川家康公
- 大山昨神
- 御鐉殿
- 御酒殿
- 小沼宮・豊受神社
- 倉稲魂神
- 豊受大神
[編集] 由緒・伝承
赤城山は、古来神住む山として、また山自体も神格化され信仰されてきた。自然崇拝・山岳信仰は原始信仰に端を発する信仰である。赤城山・赤城湖は「赤城大明神」として信仰されてきた。 古代の信仰は、神社といった施設を持たずに、臨時の祭場に依代を設け、神を招び祭事が執り行われていた。赤城山周辺住居村落には、こういった祭場が点在していたと考えられる。 次第に、祭場が定着化し集落と共に形式化して行く。しかし、現在の様な神社(建物)が出現するのは、仏教伝来以後の奈良・平安時代とされている。 神の住む処が山であり、祭りを行う処が里である。神は山と里を往き来していたのである。 山宮と里宮は、こういった信仰から発生したものである。 山岳信仰も次第に、山そのものから山頂の湖へと対象が変化する。水に対する恩恵の念が強くなってゆくのである。
勢多郡富士見村赤城山頂に鎮座する赤城神社は、大同元年(806年)、神庫山(後の地蔵岳)中腹より大沼の南の畔に遷座した。その年号に因み、神社周辺を大洞と呼ぶ。延喜式内社赤城神社の元宮(山宮)である。里宮は前橋市二之宮町付近にあったとされる。[神仏習合]]期には、修験者によって信仰の中心地とされる。仏教伝来後、仏教は日本古来の神を習合し布教を広めた。修験者は各地の霊山に登り修行の場とした。赤城山も同様である。この結果、信仰の中心は里宮から山宮へと移行してゆく。また、武家政権の出現は朝廷、国司の権力の低下を意味し、里宮の経済力を衰退させた。戦国時代、天正四年(1576年)里宮であった「二宮町鎮座の赤城神社」は、南方氏(北条一門)によって滅亡させられる。 江戸時代に至り、慶長二年(1601年)酒井重忠は厩橋(前橋)城主として入封するや、赤城山に登拝し、赤城神社(富士見村)に国内の安泰と家運の繁栄を祈願する。「正一位赤城大明神・赤城神社」の改築を幕府に申し出、その工事を完成する。次ぐ藩主(幕府大老)酒井忠世は、相殿に徳川家康公を祀る。徳川家光は、寛永十八年(1641年)落雷により全焼した社殿の改築を酒井忠世に命ずる。元来の山岳信仰と東照大権現(徳川家康)の合祀により、将軍家をはじめ諸国の大名の信仰をもあつめる。卯月八日の「山開き祭」には、「赤城詣で」として関東一円より多くの参拝者で賑わった。この時期、幕府保護のもと、各地に分社が勧請された。 明治時代以降、国家神道・軍国主義の下、豊城入彦命を主祭神に祀る神社が赤城神社を代表する傾向が強かった。しかし、唯一、赤城信仰を現代に伝える神社である。 1970年(昭和45年)に、三百年以上にわたり赤城山の厳しい気候によって荒廃した社殿は、現在の小鳥ヶ島(厳島神社跡地)に移し再建された。現在の社殿はそのときに改築されたものである。 平成十八年、大洞御遷宮千二百年祭を期に修復がなされた。
赤城大明神の記録は『続日本後紀』承和6年(839年)従五位下、『日本三代実録』貞観9年~16年(867 - 874年)に、神位昇叙がある。元慶4年(880年)従四位上に、長元年間(11世紀)正一位に叙せられる。赤城神社を特定する記述として、最古のものは『神道集』『上野國勢多郡鎮守赤城大明神事』赤城神社(富士見村・元宮)のものである。