農奴制
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農奴制(のうどせい, 英:Serfdom)は、中世ヨーロッパにおける、荘園農場において農民を拘束する制度。農奴の起源はローマ期における自由身分を失った農民層である、「コロヌス」であると言われる。農奴制は西ヨーロッパでは中世末になると解消されたが、東ヨーロッパでは近代まで維持、あるいはむしろ近代になって創設、強化された。
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[編集] 農奴制の基本的な関係
[編集] 領主
[編集] 農奴
- 家族、住居、耕具の所有は認められる
- 移動、職業選択の自由はない
農奴は賦役の義務や、領主、教会に対して税を払う義務があるなど、身分の自由が保証されていなかった。
[編集] 荘園の形態
[編集] 古典荘園
- 直営地での賦役がある荘園
- 一部農民の保有地も認められるが、直営地への比重が大きい
[編集] 純粋荘園
- 直営地より、農民の保有地からの生産物地代、貨幣地代にウエイトを置いた形態
- 生産力と農奴の地位の向上
[編集] 地代の支払方法
[編集] 労働地代
- 領主直営地における労働で地代を支払う方法(賦役)
- 生産物はすべて領主のものになるため、農奴の生産意欲は低い
[編集] 生産物地代
- 自分の農場で生産される農産物を一部納める事によって地代を支払う方法(貢納)
- 残った生産物は自分の物となり、農奴が自由に経済活動に使えることで、農奴の意欲の上昇をもたらす
[編集] 貨幣地代
- 貨幣によって地代を納める方法
- 貨幣経済の発達による。社会の経済活動が活発化される
[編集] 各国における農奴制
フランスやイングランドなど西ヨーロッパでは時代が下るにしたがって地代の支払い方法が、労働地代→生産物地代→貨幣地代と変わっていき、中世の終わり頃までには農奴制は解消されたとされる。
一方エルベ川以東の東ヨーロッパでは、中世末期において封建領主が農民の自由な移動を禁じるなど、農民に対する支配を再び強化させた。大航海時代以降は、西欧で商工業の発展が進む中、東欧は西欧に対する穀物供給地としての役割を果たした。こうして、西欧経済と結びつけられた形で、農奴制的な状況が創出された。
[編集] オーストリア
18世紀後半、東欧各国で啓蒙専制君主が出現して近代化政策を推進した。オーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世が、1781年に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には1848年革命によって農奴制は廃された。
[編集] プロイセン
プロイセンの農民は、王領地の農民、貴族の農場領主制(グーツヘルシャフト)下におかれた世襲隷属民、西欧的な自立性の高い農民の3つに類型化できる。1807年、ナポレオンに敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で、これらの農民に対する土地売買の自由などが規定され、職業選択の自由など人格的自由が確立した。
しかし、これらの改革は地主本位のものであった。農民は、人格的自由は手に入れたものの、土地の多くは地主に与えられた。こうして、地主層は労働力を隷属農民から農業労働者に切り替え、資本主義経済に適応していった。こうしたことから、プロイセンでは土地貴族(ユンカー)がのちまで政治、社会の中心となった。
[編集] ロシア
15世紀末にイヴァン3世が農民の移転を制限した法典(1497年法典)を定めると、のちのイヴァン4世も同様の法令を定めた。最終的には、17世紀に成立したロマノフ朝の初期までに、農奴制の立法化が完了した。歴代皇帝は、ピョートル1世にみられるように、近代化を推進する財源を確保する必要性から(農奴制自体は近代化から逆行するが)農奴制を強化していった。しかし、1856年のクリミア戦争における敗北によって近代化の必要性を痛感したアレクサンドル2世が、1861年に農奴解放令を出したことで農奴制は廃された。