遊佐盛光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遊佐 盛光(ゆさ もりみつ、天文16年(1547年) - 天正9年6月27日(1581年7月27日))は遊佐続光の嫡男で畠山氏の重臣。仮名孫太郎。
初め畠山義綱の偏諱で「綱光」と称したが、永禄九年の政変で義綱が追放されると盛光となった。綱光時代の行動はほとんど知られていない。
1570年(元亀元)に、畠山義慶の下、長綱連・温井景隆・平尭知らと共に年寄衆に任じられた。また、上杉氏との外交を担当するなど能登畠山家でも重要な地位にいたことから、年寄衆に任じられた時に父遊佐続光から家督を譲られたのかもしれない。しかし、盛光が成年に達して以後も続光が重要な外交や政策を相変わらず行っており、遊佐家の実権は父に握られていたと言えよう。
1577年、上杉謙信が七尾城を攻めてくると父と共にこれに内応するが、上杉謙信が死去すると一転して織田家に属している。それでも、1577年に上杉家に内応した罪を問われ1581年に織田軍の侵攻を受けて菅屋長頼に捕らえられ、父と共に処刑されてしまうなど、常に権力につくために行動するが、逆にそれがあだとなってしまう。ただ、これらの遊佐氏の行動は実権を持っていた続光の考えであろうことが推察でき、どこまで盛光が関与できていたのか不明である。