七尾城
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七尾城址 | |
通称 |
松尾城、末尾城 |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
畠山満慶 |
築城年 |
1428年 - 1429年(正長年間) |
主な改修者 |
畠山義綱、上杉謙信 |
主な城主 |
畠山氏、上杉氏、前田氏 |
廃城年 |
1589年(天正17年) |
遺構 |
郭、石垣、土塁、空堀 |
位置 |
七尾城(ななおじょう)は、現在の石川県七尾市古城町付近にあった城である。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城である。「七尾」という名は「七つの尾根」から由来されるという。別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残る。いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させる。
[編集] 城の歴史
七尾畠山氏の初代当主で能登国守護の畠山満慶が正長年間頃にこの地に築いたと思われるが、当時の七尾城は砦程度の規模と見られ、行政府である守護所も府中(現七尾市府中)に置かれていた。次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、五代当主である畠山慶致の頃には守護所も府中(七尾城山の麓)から七尾城へと移されたと言う。その後、畠山義続・畠山義綱の頃に能登では戦乱が続いたために増築され、最大の縄張りとなったと言われる。山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っている。日本五大山城のひとつに数えられるほど強固な城であった。
天正5年(1577年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された。
この際上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は非常に有名である。
※しかし、実際にはこの詩は上杉謙信が詠んだものではないと言われている。
越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、城主として前田利家が入るが、既に山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となっていたが、のち、天正17年(1589年)廃城となった。
[編集] 現在の城
前田利家が能登に在国したおり、小丸山城に移ったため、現在の七尾市街地も小丸山付近にある。従って開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、非常にしっかりと遺構が残っている。低石垣を五段に積み重ねた本丸の石垣を中心に、各曲輪の石垣のほとんどが現存する。そのため、山城の歴史上重要な遺跡として、昭和9年に、国指定の史跡に指定されている。ただ、国指定史跡に指定されたため、発掘調査ができない。そのため、遺構の状態が十分に把握できないでいたが、平成17年(2005年)に地中レーダー探査による七尾城の遺構調査が行われ、そこで柱跡などの遺構が確認された。詳しい発表は後年になされると思われる。
麓に「七尾城史資料館」があり、城由来の展示品が収蔵されている。