畠山義綱
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 文禄2年(1593年) | |||
別名 | 義胤(別名) | |||
官位 | 修理大夫 | |||
戒名 | 興禅院華岳徳栄大居士 | |||
氏族 | 畠山氏(能登系) | |||
父母 | 父:畠山義続 | |||
兄弟 | 弟:畠山義春(上条政繁) | |||
子 | 子:畠山義慶、畠山義隆 |
畠山 義綱(はたけやま よしつな)は、能登の戦国大名。能登畠山氏の第9代当主。
目次 |
[編集] 家督の継承
1551年(天文21年)、父義続が前年に起きた能登天文の内乱での責任を取って隠居したことで、義綱は家督を譲られ継承した。しかし、義綱政権の初期では、義続が後見人となっていたため、義綱の主体的な行動は1555年まであまりみられない。
[編集] 大名専制支配の確立
1555年(弘治元年)、重臣たちの政治合議組織で大名権力を傀儡化させた「畠山七人衆」を崩壊させるため、中心人物である温井総貞を義続・義綱父子らは暗殺した。この暗殺事件をきっかけに温井氏と、温井氏と親しい三宅氏が加賀の本願寺を味方につけ大規模な反乱を起こし、一時は外浦を占領された(弘治の内乱)。しかし、この内乱も1560年頃までには義綱方に鎮圧され、収束している。この内乱の過程で義綱方は士気が高まり大名専制支配を確立した。
この内乱が終息した1560年から1566年の時期は、末期の能登畠山家にしては安定した時期と言える。能登国内での家臣たちの戦争や内乱は起こらなかった。また、将軍家への贈答を1561年に再開したり、気多社の造営を朝廷の許可を得て実行している。さらに、1562年には上杉謙信に攻められた神保長職に仲介を頼まれ争いを調停し合意させるなど、外交活動が活発化している。
[編集] 永禄九年の政変とその後
しかし、義綱中心の大名専制支配に反発した長続連、遊佐続光、八代俊盛などの重臣が1566 年にクーデターを起こして義続・義綱父子らを追放した(永禄九年の政変)。このため、義綱らは縁戚関係にあった六角氏の領地である近江坂本に亡命した。
能登奪回を目指す義綱らは、六角氏 の支援と、上杉謙信や神保長職らの連携により、1568年(永禄11年)に能登に侵攻したが失敗し敗退した。その後も復権するために画策するが叶わなかった。後の豊臣秀吉の臣となったという史料もあるが定かではない。義綱は1593年12月21日、近江国伊香郡の余吾浦で没したと言われる。法名は興禅院華岳徳栄居士。
[編集] 人物
- 義綱は「長家家譜」などの後世に書かれた書物には「義則」と記されることが多い。しかし「義則」という名前は良質な史料(古文書など)には見えなく、義綱の子・義慶を誤伝したものではないか。すなわち、義綱を義則を誤伝しているから、義慶の存在を「長家家譜」などは見逃して、次の当主を義隆としているのではなかろうか。
- 義綱の花押は、祖父畠山義総に非常に似ているものを書いている。これは、30年にわたって領国能登を安定させ繁栄させた祖父を尊敬しているためと思われる。
- 義綱の近臣に飯川光誠がいる。義綱政権にあっては年寄衆を務め義綱を補佐し、近江に亡命した後は、義綱のために外交などで常に一戦で活躍している。まさに義綱に仕えた最高の忠臣である。
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