鄭玄
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鄭 玄(てい げん, 127年(永建2年) - 200年(建安5年))は、中国・後漢末期の学者である。中国人名は漢音で読まれることが多いが、鄭玄に限って慣習的に呉音で「じょう げん」と呼ばれることが多い。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身、字は康成。
[編集] 略要
鄭玄の八世前には哀帝の時に尚書僕射まで昇進した鄭崇がいる。ただし鄭玄は 邑里の小役人に過ぎなかったが、貧窮をものともせず学に励み、22歳で太学へ進んだ。さらに馬融らの当時一流の儒学者に師事した。勉学にいそしむこと10数年で郷里に戻り、学生を指導した。
44歳の時に党錮の禁に連座し、以後は仕官することなく、家中で著述に専念することとなった。晩年には朝に徴されて、大司農となった。ただ、それは、鄭玄の本意ではなく、職を離れて生涯を研鑚に捧げた。門人の孫乾を劉備に仕官させた事でも知られている。
儒学史の流れから言えば、前漢代の経学は、今文学派が全盛であり、また一経を専修し、師説を継承するのをよしとした。後漢代には、古文学派発展し、一人で複数の経典を兼修するのが常となった。
鄭玄の立場は、古文を主とし、今文・古文の諸説を統合して一家の説を形成するものであり、広く六経全般を研究した。その立場に対して批判する者もあったが、彼の経典解釈の功績は甚大であり、後世、清朝の漢学(考証学)のために重要な資料を提供することとなった。現存する『三礼注』や『毛詩鄭箋』は、それらを代表するものである。
[編集] 伝記資料
- 『後漢書』巻65張曹鄭伝に鄭玄の伝が所収されている。