酒井忠貫
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 宝暦2年11月21日(1752年12月26日) | |||
死没 | 文化3年1月12日(1806年3月1日) | |||
別名 | 藤太郎、数太郎(幼名) | |||
戒名 | 本覚院殿 | |||
墓所 | 福井県小浜市男山の空印寺 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、修理大夫 | |||
藩 | 若狭小浜藩主 | |||
氏族 | 酒井氏 | |||
父母 | 父:酒井忠与、母:西村氏 | |||
兄弟 | 酒井忠貫、遠藤胤相、船越景範、高木正直 | |||
妻 | 正室:伊達宗村の娘 継室:久我通兄の娘 継室:大炊御門家孝の娘(久我信通の養女) |
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子 | 酒井忠望、酒井忠順、養子:酒井忠進 |
宝暦2年(1752年)11月21日、第8代藩主・酒井忠与の長男として江戸牛込藩邸にて生まれる。宝暦12年(1762年)、父の死去により後を継いで藩主となる。宝暦13年(1763年)に従五位下、修理大夫に叙任する。天明3年(1783年)から連年のように凶作が相次ぎ、それによる対応策、並びに復興のための資金で財政難に悩まされた。天明4年(1784年)、従四位下に昇進する。
寛政4年(1792年)、ラクスマン来航の際には、根室の防備を務めた。文化3年(1806年)1月12日に死去。享年55。
実子の忠順は若年のため、養子の忠進が後を継いだ。
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