野球の起源
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この項では、野球の起源(やきゅうのきげん)について説明する。
ただし、野球の起源に関しては諸説あるため、現在最も有力とされている説を中心に話を進めることとする。
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[編集] 起源
[編集] 古代
先行人類の時代にはすでに、野球のボールと同じくらいの大きさの石が使用されていたことが確認されている。アフリカの地中海沿岸地域から、その石が多数出土した。これは、何らかの武器であったと考えられている。足の速い動物を仕留めるために、命中率と威力を兼ね備えた武器を求めた結果、「野球ボールと同じくらいの大きさの」石が最も適した武器であるという結論を得たと思われる。
農耕が発展すると、球体は「世界と宇宙」、つまりは権威の象徴として祭儀に利用されるようになった。古代エジプトやその他の地方では、王が球を棒で打ち、その飛び方で農作物の豊凶を占っていたことが判明している。
[編集] 中世
12世紀頃のフランスで、「ラ・シュール」というスポーツが誕生した。2チームに分かれ、足や手、棒などを使い敵陣にある2本の杭の間にボールを通すゲームで、今日のあらゆる球技の原型とされるスポーツである。死傷者が出るほど危険であるにもかかわらず人気が非常に高かった。
これがイギリスに渡り、「ストリート・フットボール」となる。ボールに牛や豚の直腸や膀胱を使い、そのボールを敵陣内にあるゴールまで運ぶゲームである。しかし大英帝国の発展とともに、兵士が戦争や植民地支配へ駆り出されるようになる。すると、牛や豚を殺さないとボールが作れないストリート・フットボールの代わりに、石に草の茎や糸を巻き付けるだけで簡単にボールが作れるスポーツが流行るようになっていった。
そのうちの一つに「ラウンダース」というゲームがある。ペッカーやフィーダーと呼ばれる投手が小石を詰めた靴下などのボールを投げ、ストライカーと呼ばれる打者がそれを船の艪などのバットで打ち返し、杭や石でできた4つのベースを回るというものだった。また「ワン・オールド・キャット」というゲームもあったが、こちらは、打者が棒で球を打ち、打球をノーバウンドまたはワンバウンドでキャッチした者が次の打者になる、というものだった。
これらは少しずつルールを変えながらも遊ばれた。町民が集会所に集まり町の行政について話し合う「タウン・ミーティング」が開かれたときによく行われたことから「タウン・ボール」と呼ばれた時期があった。この時期には既に、投手が打者にボールを投げ打者が打ち返す、フィールドに適当に散らばった野手がその打球をキャッチしそれを打者走者にぶつければ打者はアウトになる、4つの塁があり走者がこれを全て回ってホームに帰ってくれば得点が認められる、など現在の野球に似通った部分が多く認められる。
[編集] 1800年代
1834年には、アメリカでロビン・カーバー編『スポーツの本』という本が発行され、ラウンダースが「ベースボール」として紹介されている。ただし、この時代にはまだルールは地方によってまちまちで、定まったものではなかった。
1840年代にニューヨーク・マンハッタンでボランティア消防団を創設したアレキサンダー・カートライトという男がいた。彼は団員の結束を強めさらに彼らの運動不足を解消するにはどうすればいいか考え、「屋外でのスポーツ」という結論に至った。1842年、彼は消防団からメンバーを募り「ニッカーボッカーズ」というスポーツ団を発足させた。ニッカーボッカーズは近隣のマレー・ヒルという地域でタウンボールをするようになった。
タウンボールはルールが厳格に定められたスポーツではないため、時や場合によってルールをいちいち変える必要があった。カートライトはこの煩わしさを解消するため統一ルールの策定に乗り出した。彼はニッカーボッカーズメンバーと議論し、意見をまとめた。1845年のある晴れた日、マレー・ヒルでボール・ゲームをしていた団員の元にカートライトがやって来て、自身がまとめた新しいゲームの案を披露した。主なルールは以下の通り。
- チームの人数を攻撃側と守備側それぞれ9人ずつにし、一方のチームが攻撃中には相手は全員がフィールドに散らばり守備につく。
- フィールドを菱形に設定し、ホームベースに鉄のプレート、その他3つのベースに砂を入れたカンバス地の袋を置く。塁間は42ペイス(90フィート)。
- (1)打者が3球を空振りし、その最後の球を捕手が捕球したとき(2)打球がノーバウンドまたはワンバウンドで捕球されたとき(3)打球が相手側に捕球され、走者よりも先に塁に送られるか、走者が塁に着くより先にボールでタッチされたとき(4)捕球しようとする相手の邪魔したとき…以上の場合に攻撃側はアウトとなる。3アウトで攻守が交代。
- 一塁または三塁の外側に出た打球はファウルとなり、打者が塁に進むことやそれによって得点が入ることはできない。
- 21点を先取したチームが勝ち。
団員は最初これを聞いていたときには嘲笑したが、カートライトの熱心さに押されて、このゲームをやってみることにした。すると結構おもしろいことがわかり、団員らはすぐにクラブを設立することにしたという。これが今のベースボールの原型と言われている。1846年6月19日には、マンハッタンの対岸に位置するニュージャージー州ホーボーケンにおいて最初のベースボールの試合が開催されたが、カートライト率いるニッカーボッカ-ズはニューヨーク・ナイン相手に1-23で負けてしまった。
1861年から1865年の南北戦争は、北部で盛んだったベースボールを南部出身者に広める役割を果たした。こうしてベースボールは全米で人気を獲得したのである。
[編集] ルールの変遷
ベースボールは誕生した後もルールの変更を繰り返している。ルールの度重なる変更の狙いは「試合時間の短縮化」と「試合のスリリング化」の2つが挙げられる。
- 試合進行について
- ベースボールが誕生した当初は21点先取制だったが、あまりにも時間がかかりすぎるために、1857年に「9回終了時に得点が多かったチームの勝ち」になった。
- 投球について
- 最初は投手には下手投げしか認められておらず、打者は投手にコースの指定ができた。
- 1858年、見逃しに「ストライク」(打て)のコールがされるようになる。
- 1863年、真ん中付近を通らない球に「ボール」のコールがされるようになる。
- 1879年、全ての打たれなかった投球はストライクかボールに区分され,9ボールで一塁へ。
- 1880年、8ボールで一塁へ。捕手が3ストライク目の球を直接捕球すれば打者は三振でアウトが取られるようになった。
- 1881年、投手と打者の距離が45フィートから50フィートへ延長された。
- 1882年、7ボールで一塁へ。横手投げが解禁される。
- 1884年、6ボールで一塁へ。上手投げが解禁される。
- 1886年、7ボールで一塁へ。
- 1887年、打者が投手に投球コースを指定できなくなった。5ボールで一塁へ。この年のみ5ボールは安打と記録され、4ストライクでアウトに。死球で一塁が与えられた。
- 1889年、4ボールで一塁へ。
- 1893年、投手と本塁の距離が50フィートから60フィート6インチに。
- 守備について
- ノーバウンド捕球だけでなく、ワンバウンド捕球でも打者はアウトだった。
- 1864年、ワンバウンド捕球=アウトが廃止され,ノーバウンドのときのみアウトとされた。
[編集] ダブルデイ説とは
1905年、A.G.スポルティングという男が「ベースボール起源調査委員会」を設置。同委員会は1907年に「ベースボールはアメリカ独自のスポーツである」「1839年にアブナー・ダブルデイがクーパーズタウンで考案したのがベースボールである」と発表した。この発表を受けて実業家スティーブン・クラークがクーパーズタウンに野球殿堂を開設するなど、ダブルデイ説は国民の支持を受けた。
しかし後にダブルデイ説に多くの疑問が投げかけられていく。最終的にダブルデイは1839年にはクーパーズタウンにいなかったことが判明。委員会の発表は捏造だったことが白日の下に晒された。
委員会がこのような嘘の発表をした理由として、当時のアメリカにおける愛国心の異様な高まりが考えられている。「アメリカの国技が大英帝国発祥なんてことは許せない」という気持ちが国民の共通認識として存在した、というわけである。また、委員会のメンバーにダブルデイの親戚がいたことから、「ベースボールの始祖」という名誉を親戚に与えたかったのではないか、とも言われている。
[編集] 参考文献
- 玉木正之著『私家版野球史論序説――ボールゲームの起源、発展そして堕落』(初出…別冊宝島93『プロ野球の悩み』JICC出版局 収録…玉木正之著『されど球は飛ぶ』扶桑社文庫 ISBN 4-594-01483-6)
- 佐山和夫著『野球とクジラ カートライト・万次郎・ベースボール』河出書房新社 ISBN 4-309-00830-5