鈴木昌
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鈴木 昌(すずき まさる、1935年12月15日 - 、兵庫県神戸市出身)は日本の経営者。2002年から2006年まで、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の第2代理事長(Jリーグチェアマン)を務めた。
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[編集] 経歴
六甲学院高等学校から東京大学法学部を経て住友金属工業株式会社に入社。輸送関連部門、広報部門などを歴任し、1987年に茨城県鹿島町(現在の鹿嶋市)にある同社鹿島製鉄所に異動、副所長を務めた。またこの頃、後に鹿島アントラーズの母体となる住友金属工業蹴球団の団長を兼務した。
その後、関連会社の鹿島運輸株式会社(現在は他の系列会社と合併し住友金属物流に統合)に転出し社長まで務め、1994年に鹿島アントラーズを運営する鹿島アントラーズFC株式会社の代表取締役社長に就任した。
2000年には社長職を退き特別顧問となったが、2002年に初代チェアマンであった川淵三郎が日本サッカー協会会長となったため、後任として同年7月に第2代チェアマンに就任した。また同時に、日本サッカー協会副会長の職も川淵三郎から引き継いだ。
日本サッカー協会の定年(70歳)に合わせて、2006年7月の任期満了とともにチェアマン職を退き、鬼武健二を後任とした。
[編集] 評価
Jリーグや日本サッカー協会に関わる多くの指導的人物と異なり、高校・大学・実業団におけるサッカー選手としての経験を持たない。住友金属蹴球団の団長もわずか2年のことであり、サッカー界との本格的な関係は鹿島アントラーズの社長に就任した時点から始まると言ってよい。 一方で、企業人としての経験は豊富である。前任者の川淵三郎も、Jリーグの各クラブの健全な運営を目指すため、企業経営を熟知する人物を後継チェアマンに置くべきと考えて、鈴木昌に白羽の矢を立てたとされている。
チェアマンに就任後、2003年に延長Vゴール方式を廃止、2005年には従来2ステージ制であったリーグ戦を1ステージにするなど、Jリーグの開催方式を世界基準に合わせる各種の改編を行ってきた。また、1999年以降16チームで推移してきたJリーグディビジョン1を2005年から18チームに拡大し、Jリーグ参加希望クラブの受け皿として3部リーグ(J3)を創設する構想をマスメディア上で披露するなど、Jリーグ百年構想を推し進める施策や発言を行った。これらの制度変更に対するサッカーファンの評価は概ね好評である。
クラブへの関与としては、経営危機に陥ったサガン鳥栖やザスパ草津といったクラブに対して、状態が好転しない場合の除名を明言する一方で、具体的な援助策を講じた。また2006年からのJリーグ参加を目指した愛媛FCに対して地元自治体との連携やホームスタジアムの貧弱さを理由にいったんは参加拒否を示唆するような発言をしつ、地元の支援が明文化されると一転して受け入れを表明するなど、企業人ならではの駆け引きを随所に見せた。こうした言動に対してはサッカーファンの間でも批判や反感が見られ、その評価はさまざまである。
[編集] エピソード
鹿島アントラーズの代表取締役社長時代、Jリーグの企業名を排除したクラブ名やリーグによる放映権管理に反対して制度の変更を強硬に求めたヴェルディ川崎(当時・現東京ヴェルディ1969)の代表者に対し、「『誰も止めないから今すぐとっととJリーグから出ていけ』と、鹿島の鈴木が言ってたとナベツネに伝えとけ!」 と言い放ったと言われている。
[編集] 関連項目
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