渡邉恒雄
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渡邉恒雄(わたなべ つねお、1926年5月30日 - )は読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆。読売巨人軍代表取締役会長。通称は「ナベツネ」。
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[編集] 読売新聞社での歩み
東京大学文学部時代は日本共産党員として活動していたが、その後党を批判し除名され、卒業後は保守系とされる読売新聞社に入社。週刊読売(現読売ウイークリー)記者を経て、権謀術数を巧みに操り政治部記者におさまる。警察官僚出身の社長正力松太郎の目にかなって、自民党有力政治家の大野伴睦の番記者になり保守政界と強い繋がりを持つようになった。児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている。大野の死後は中曽根康弘と接近して、今日でもその親密ぶりはよく知られている。
1977年渡邉は編集局総務局長待遇に就任する。1977年2月18日付の読売新聞社説は百里基地訴訟一審判決の違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邊の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していった結果だとされている。
1981年取締役論説委員長に就任した渡邉は、1984年からの元旦社説を自ら執筆した。その間、渡邉と意見を異にする論説委員の黒田清・山口正紀らが退社に追い込まれたという(渡邉恒雄氏におけるジャーナリズムの研究~から)。1987年元読売新聞社会部記者のジャーナリスト大谷昭宏は、渡邉が政治部の強権政治を強め社会部を迫害し始めたため読売新聞を退社した。
1970年代から1980年代にかけて大手新聞新聞社の購読者獲得競争が熾烈を極める。あの手この手の景品贈答合戦が繰り返され、特に朝日新聞社と読売新聞社の間で繰り広げられた購読者数日本一の争いは社会問題にもなった。新聞各社が販売店に厳しいノルマをかけて購読部数獲得を競った。
渡邊は1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員、1999年には日本新聞協会会長に就任した。2005年現在は 読売新聞グループ本社の会長に就任。ジャーナリスト魚住昭の評価によれば、渡邉は猜疑心が強く不服従の部下には容赦ない攻撃を加えて排除して社内にワンマン体制を確立した。
[編集] 読売巨人軍オーナーとしての活動
[編集] 読売新聞社とプロ野球
1934年、読売新聞社は日本初の職業野球球団、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ、以下巨人)を設立。以来、人気・実力ともにプロ野球界を牽引し、日本野球機構の運営にも大きく関与した。1960年代からは、国民的スター長嶋茂雄・王貞治を輩出して9連覇を達成。「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も出るほど全国的な人気を得た。系列の日本テレビでは巨人戦のプロ野球を中継し、読売新聞の購読者数も爆発的に拡大した。だが一方で、別所毅彦の引抜事件や江川事件(空白の一日)などのように、人気球団の立場を利用するかのような強引な手法をたびたび起こし、批判を呼んだ。
[編集] オーナー就任と制度改変
渡邉が巨人の経営に参加したのは読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(メンバーは他に同社名誉会長・務臺光雄、同社社長・小林與三次、巨人軍オーナー・正力亨)。1991年に務臺が死去した後しばらくは沈黙していた渡邉だったが、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で巨人軍オーナーに就任。ファンの数、資金、歴史など、群を抜いて影響力のあるチームのオーナーとして球界に君臨し、さらなる影響力を及ぼすようになる。
プロ野球では、選手の球団選択の自由が大きく制限されていることが問題となっており、米メジャーリーグにならってドラフト制度を改革し、同時にFA制度を導入することが選手側から求められていた。メジャーのドラフト制度は、前年度成績の低かった球団の順に、新人選手を採用できる完全ウェーバー方式を採用しており、戦力を均衡するという理念によって成り立っている。またドラフトで選手の球団選択が制限されていることの見返りに、FAによって、入団後一定の期間を得た選手が他球団への移籍を自分で決めることができ、選手の選択の自由も保障するというシステムになっていた。このシステムを見習って日本プロ野球界もドラフト制度を改革し、FA制度を導入することになったが、現実に導入されたシステムでは「戦力の均衡」という理念が大きく損なわれていた。ドラフト制度が改革されて逆指名システムが導入され、大学生と社会人は行きたい球団を指名できることになり、資金力のある球団が有力な新人選手と契約できることになった。また同時にFA制度が導入されて、一定期間を経た選手の移籍契約が自由になったため、資金力のある球団だけが有利になることになってしまった。
これら資金力のある球団が有利になるドラフト制度逆指名システムやFA制度などの導入に際して、渡邉はオーナー会議の席上で、「反対するなら脱退して新リーグを結成することも辞さない」などと自分勝手な発言をし、意見を異にする他球団の同意を恫喝して強要させた。この制度の導入後、巨人はパ・リーグを中心とする他球団から多くの有力な選手を高い報酬で手荒な手法で次々と獲得していった。次々と獲得し、「1強5弱」「1強11弱」とも言われる戦力の不均衡、パの人気低下を招いた。これらの手法は、巨人軍生みの親ともいえる正力松太郎が遺訓の一つとして掲げた「巨人軍は常勝たれ」を、渡邉が忠実に守っている証拠だとも言える。
[編集] オーナー時代の成績
人気を維持して手っ取り早くチームを強化するため、資金力に物を言わせて逆指名システムやFA制度を利用して有力選手をかき集めたが、皮肉なことにそのことが若手育成の機会を奪うことになってしまった。清原和博や江藤智、小久保裕紀らホームランバッターばかりが並んだアンバランスなチームは成績低迷を極め、巨人のファン離れを買い、同時にプロ野球全体の戦力バランスを大きく損ねてしまった。戦力補強は読売新聞販売部数拡大や日本テレビ系列の視聴率アップと大いに関係していたが、勝てないために新聞販売部数も視聴率も逆に大きく低下した。将来ある若手選手が入団しても、1軍でいきなり華々しい活躍を見せなければレギュラーを獲得できない今の巨人では、チームの将来性に希望を抱くことすら出来なくなっている。また、2002年7月にはビジターユニフォームの胸の文字を「TOKYO」から「YOMIURI」に変更した。
翌2003年終盤にリーグ優勝の望みが絶たれ巨人戦のテレビ中継視聴率が低迷すると、球団は翌年のコーチ編成を巡って原辰徳監督と対立した。結果、原が辞任してV9時代のエース堀内恒夫の監督就任で事態が決着したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した。突然、監督を任せられた堀内は、ベテラン大物選手が多いチームで指導力を発揮できず、かといって大物選手に出場機会を奪われた若手は成長するべくもなく、一発はあるが走力・守備力の弱い先発メンバーでは作戦も立てられず、チーム成績は低迷することになった。
[編集] プロ野球再編問題
2004年、人気が低迷していた近鉄とオリックスの間に合併話が持ち上がった。そのほかパ・リーグ所属のダイエーと西武には親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。
この機に渡邉は巨人の人気続落傾向に歯止めをかけようと、西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らとプロ野球1リーグ構想を画策した。1リーグ10球団にして球団数を減らせば、単純計算では1球団当たりのファンを確保でき、また2リーグ時代には出来なかった対戦カードを実現すれば人気回復を図れるだろうという目論見だった。ファンや選手から批判されながらも近鉄・オリックスの合併を強引に既成事実化し、10球団を実現するため今度はダイエーとロッテまたは西武とロッテの合併をも進めようとした。
これに対し選手やファンは、球団数の減少に反対、1リーグにすればオールスターや日本シリーズへの興味がなくなると批判。何より選手やファンの声を無視した強引なやり方に強い批判が集まった。またスポーツ評論家などは、球団数の減少は市場の縮小に他ならず、野球から他のスポーツにファンが離れていく危険性や、メジャーリーグでは球団数を増やすことでむしろ成功したことなどを説いて、1リーグ構想に反対する者が多かった。セ・リーグ所属チームの球団首脳陣らも、1リーグになると巨人戦の試合数が減少し収入が大幅に減少することから、パ・リーグの経営危機がセ・リーグにも飛び火しかねない状況になるため、異論を唱えた。渡邉は巨人のパ・リーグ入りを示唆して牽制した。
ファンや選手を無視した近鉄・オリックスの合併構想は激しい世論の反発を招いた。ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ると、選手やファンの多くが一斉にこれを歓迎した。これに対して渡邉は「お金があるだけじゃだめだよ、プロ野球は。僕の知らん人じゃ話にならんよ」と堀江を一蹴し、堀江らライブドアとは敵対関係となった。スポーツ評論家の多くが、門戸開放型のJリーグを引き合いに出して、寄合型のプロ野球の球団経営を批判した。
プロ野球改革と2リーグ12球団の維持を願う日本プロ野球選手会会長古田敦也(ヤクルト、肩書は当時)が経営者側と話し合おうとしたが拒否された。インタビューに答えた渡邉が「無礼なこと言っちゃいかんよ、たかが選手が」と発言したことで事態は急転する。この発言は政界や労働組合などでも問題視され、読売新聞購読者から不買運動がネットを中心に起きた。この年、読売新聞は創刊130年という事で渡邉会長自らが新年の訓示で部数1030万部を目指すと発表したが、結果は1020万部には伸びたものの目標には届かなかった。この点では少なからず不買運動の影響があったかもしれない。のちに渡邉は自らの手記で、「たかが選手が」の発言は記者の誘導尋問で言わされたと反論している。
世論は日本野球機構のコミッショナー根來泰周に事態収拾の役割を期待した。しかし根來は「コミッショナー権限には限界がありますよ」と発言、はからずもプロ野球界でいかにオーナー企業が強い権限をもっているかを認めてしまった。
8月13日、プロ野球再編騒動の真っ只中に、明治大学の一場靖弘(現楽天)を巡る裏金事件が発覚。渡邉は土井誠球団社長、三山秀昭球団代表とともに責任をとって辞任、滝鼻卓雄読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。その後もメディアにプロ野球改革に関わる渡邊の主張が取り上げられることもあったが、影響力はなく過去の人の感が否めなかった。
世論に後押しされる形で日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。11月にライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。
2005年M&Aコンサルティングが阪神電鉄の筆頭株主となり阪神タイガースの株式上場を提案したことに激怒し、「村上阪神などありえない」「断じて(上場は)許さない。潰すから大丈夫だ」「宮内さんが出資している村上ファンドが阪神に手をつけ、TBSに手をつけ、西武の株も買っておる。協約違反になるんだよ。解消してもらわなきゃオリックス・バファローズの支配権抹消もあり得る」と発言した。また楽天がTBSに経営統合を申し入れたことに激怒し、「TBSが楽天の軍門に降ることはない。横浜ベイスターズをどこかに売却するなんて失礼な話だ」とも発言。さらに「ホリエモン(ライブドア堀江社長)が広島カープの乗っ取りに必死だ。政財界の大物が動いている」「昨年の新規参入審査で拒否した人物で一事不再理だ」と発言した。
[編集] 渡邉と他のスポーツ
渡邉は、数々のスポーツに手を出していることで有名である。
[編集] 相撲と渡邉
渡邉は1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、若貴ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、ここでも保守的な立場から意見した。2002年9月2日、当時右膝の怪我に悩み1年以上休場が続いていた貴乃花光司に対し「秋場所に出ろ。納得いかないのなら、私が委員長を辞めるしかない」などと発言し、膝の故障が完治しない貴乃花に出場を勧告し進退を迫った。秋場所に出場した貴乃花は12勝をあげて千秋楽まで優勝争いに加わったものの、終盤に右膝を悪化させ九州場所を全休、翌年初場所途中に引退した。
[編集] サッカーと渡邉
1992年、読売サッカークラブを母体に「読売ヴェルディ」を設立し、Jリーグに参加。三浦知良・ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と読売ヴェルディの巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。なお一時不景気を反映して経営難が続出していたJリーグだが、その後地域密着型が功を奏し、ファンの後押しもあって順調に客足が伸びて黒字クラブの数が増加している。
元々ヴェルディは東京都内に本拠地を模索したが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市に本拠地を置いた経緯があった。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になった。なお1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦の結婚式では媒酌人も務めた。
[編集] オリンピックと渡邉
渡邊はオリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国・台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュアの日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邊は、「つまらん商業五輪の礼賛は我が大巨人軍、セ・リーグとして与しない。大巨人軍とワシが国賊扱いされるのは我慢ならん。」と一喝して巨人からの選手派遣を拒否した。ところが2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄が日本代表監督に指名されると、一転して主力の上原浩治や高橋由伸を参加させて協力した。
ただシドニー五輪については、当初アマチュア選手のみのチーム編成で五輪に挑む方針が示されていたことから、杉浦正則を始め「五輪に出場するためにプロ入りを回避した」アマチュア選手が多数存在しており、それらアマチュア選手に配慮する必要があったこと、また1961年の柳川事件以降長きに渡って続いたプロ・アマの断絶を背景に、日本野球連盟による選手派遣要請後も日本学生野球協会を始めとする学生野球関係者を中心に、プロ選手の五輪代表への参加に反発する声が依然として少なくなかったことなどにも留意する必要がある。アテネ五輪で渡邉が一転してプロ選手の派遣を容認したのは、当初からプロ選手を中心としたチーム編成を行う方針が示されていたことに加え、シドニー五輪を契機にプロ・アマ間の雪解けが進んだことが大きな理由として挙げられる。
[編集] 人となり
政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に知られている。1991年から2005年までは、日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会の委員を務めた。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を誇示してきた。趣味は読書(哲学書など)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。葉巻とパイプ、野鳥のえさやりをこよなく愛する。TVドラマ「渡る世間は鬼ばかり」(橋田壽賀子脚本)の大ファン。
ライブドア・ショックで堀江らの後を継いだ平松庚三は、渡邉が読売新聞ワシントン支局長だった頃アルバイトをしており、渡邉は平松の結婚式の媒酌人も務めた。平松の社長就任に際してはライブドアに対し歓迎するコメントを出した。
また、私の死亡記事と言う本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死。葬儀は音楽葬の形式で、また読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてノーベルスポーツ賞を初受賞する事が、最大の私への餞だと記載している。 また、あまり知られていないが大変な愛妻家である。今でも出かけるときはキスを忘れない(本人談)。
[編集] 嫌われ者
[編集] 過剰な批判
読売新聞の敵対メディアからは常にバッシング報道される。時にはありもしない報道もされ裁判沙汰になるが、これらの裁判で渡邉は全て勝訴している。
しかし、現場の渡邉番のスポーツ紙記者によると、記事のネタがないときは渡邉のところに行けばネタが拾えるため、記者たちはネタ欲しさのためこぞって渡邉のところに行く。このことを現場の記者たちは「困った時のナベツネ頼み」と言う。またそれを察した渡邉が自ら悪役になり記事になるような暴言を吐きネタを提供していることを現場の記者は知ってるため、現場記者からは世間で作られた悪役イメージと違い好感を持たれている(渡邉自身が記者だったこともあってか、基本的に新聞記者は大切に扱うという)。特に夕刊フジは読売系列と言われるほど好感を持っている(例:「渡邉会長の慧眼」など)。また「読売新聞社での歩み」欄にあるように、ジャーナリストの魚住昭は著書で渡邊の暗部を指摘しているが、一方で「普通に話している分には面白い人」とも語っている。
一方政界でもかつては大野伴睦と中曽根康弘が「犬猿の仲」である事を知りながら、両者を渡り歩いた渡邉に対して嫌悪感を抱く者も少なくなかったが、世代交代によってその事を知る世代が少なくなった事もあり、そうした意見が聞かれる事はほとんど無くなったという。
[編集] 筆頭株主交代騒動
2001年11月16日、経営が悪化していた横浜ベイスターズの当時の親会社・マルハが球団株の第2位の株主であったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表、NPBもこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで渡邉が「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と発言をし、待ったをかけた。これをきっかけに横浜ベイスターズはニッポン放送への球団株売却は頓挫、最終的に第3位株主のTBS (東京放送)に譲渡された。このような“妨害事件”に怒りを露にする横浜ベイスターズファンも多く、彼らの中での“アンチ読売”が一層高まったとも言われている。
[編集] 略歴
- 1926年 現在の東京都杉並区に生まれる
- 1939年 開成中学校に入学。第4志望であった。第1志望は府立高校尋常科、第2志望は武蔵高校尋常科、第3志望は府立一中であったとのこと。この時、母親に「あんなボロ中学に入って」と親戚一堂の前で泣かれた。
- 1943年 東京高等学校に編入学。網野善彦、氏家齊一郎と知り合う。
- 1945年 東京帝国大学文学部に入学。同年7月に陸軍砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊。
- 1946年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党
- 1947年 組織のために個人を犠牲することに疑問を抱いて本部を批判、日本共産党を除名される。しかし、当時査問委員長であった山辺健太郎らをはじめ検察側であった10数人の東大細胞のメンバーが後に宮本顕治によって粛清されたため除名記録自体が残っていない。
- 1949年 東京大学を卒業して東京大学大学院に入学する。当時は哲学者、東京大学総長を夢見ていたが、修士論文執筆のためのネタ本を、新宿の公衆便所で紛失。というより紙が無いのでそれで拭いてしまった。「ペンは剣よりも強しというが糞よりは弱い。」どんなに高尚な書物であっても、所詮人間の欲求や生理現象にはかなわないことを悟り、新聞界への就職を決意。なお、元共産党員という理由で中央公論社の入社試験に落ちている。
- 1950年 読売新聞に入社。週刊読売に配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎(現・日本テレビ放送網取締役会議長)を誘う。
- 1952年 日本共産党山村工作隊の取材で奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事解放されるが、このとき隊のリーダーだったのが、「生きることの意味」の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動。
- 1954年 結婚。大野伴睦の番記者に。党人派重鎮の威を借りて政界に食い込んでいく。
- 1956年 中曽根康弘と知り合う。
- 1958年 児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。
- 1959年 中曽根康弘らとサイエンティフィック・ポリティクス研究会を始める。6月には中曽根康弘の岸改造内閣への入閣に尽力。
- 1960年 安保反対の全学連デモが国会に突入し、その際、東京大学の樺美智子が死亡するが、これに対する内閣声明を執筆。
- 1964年 大野伴睦の死去に伴い、船田中の番記者になる。九頭竜ダム建設の補償問題で、一千万円の運動費で調停役を依頼された児玉誉士夫のメンバーの一員に。他に中曽根、氏家がいた。この調停は成立せず、1,000万円は返却されたという。
- 1966年 首相の佐藤栄作が読売に決まりかけていた国有地払い下げの白紙撤回を宣言した為、氏家斉一郎と共に国有地獲得工作に奔走。12月、務臺光雄社長が会議で佐藤栄作批判の大演説、それを受けて渡邉が反佐藤キャンペーン記事を執筆。
- 1968年 1月、政治部次長。12月、ワシントン支局長に就任。政治部長への就任を「児玉誉士夫に読売を乗っ取られる」と恐れた社会部の圧力があったといわれている。
- 1972年 1月、ワシントンでの任務を終えて、帰国。編集局参与を経て、同年10月に解説部長。
- 1975年 政治部長兼編集局次長
- 1976年 ロッキード事件。児玉誉士夫逮捕される。九頭竜ダム補償問題を暴露した著書「権力の陰謀」が出版され、児玉と渡邉の関係が明るみに
- 1977年 編集局総務(局長待遇)
- 1979年 取締役論説委員長。読売新聞の論調が保守傾向化するきっかけに
- 1983年 専務取締役論説委員長
- 1985年 専務取締役主筆論説委員長
- 1987年 筆頭副社長主筆
- 1991年 社長に就任。日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会委員に就任
- 1992年 前立腺癌の治療のため、睾丸の摘出手術を受ける。
- 1996年 読売ジャイアンツのオーナーに就任
- 1999年 日本新聞協会会長。経営難に陥った中央公論社の営業権を買収し、中央公論新社を設立。
- 2000年 中央公論新社から『渡邊恒雄回顧録』を出版。自宅にやってきたカラスを空気銃で打ち落とそうとして自宅の屋根に上ったが、雨上がりのために屋根は濡れており、カラスを打ち落とす前に滑って床に転落し、左腕を骨折する。
- 2003年 日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任
- 2004年 近鉄・オリックス合併問題で経営側との話し合いを求める選手の声に対して所謂「たかが選手」発言。8月に明治大学野球選手・一場靖弘(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)を巡る裏金事件の責任をとってジャイアンツのオーナー辞任
- 2004年 渡邉恒雄名義の日本テレビ放送網株が実際には読売新聞社の保有であることが判明し、日テレ株は監理ポストに割り当てられた
- 2005年 横綱審議委員を任期満了で退任
- 2005年 ジャイアンツ代表取締役会長に就任
- 2006年 1月5日に刊行された論座(朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・朝日新聞論説委員と行う。この年に白内障の手術を受ける
[編集] 受賞歴
- 2002年 第14回日本メガネベストドレッサー賞経済部門 を受賞。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『渡邉恒雄 メディアと権力』魚住昭(講談社文庫)ISBN 4-06-209819-9
- 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社)ISBN 4-12-002976