阿倍御主人
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阿倍御主人(あべのみうし、舒明天皇7年(635年) - 大宝3年(703年)閏4月1日)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢(ふせ)あるいは普勢(ふせ)でもあり、阿倍普勢(あべのふせ)などともいう。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は臣、後に朝臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側にたった。天武天皇の時代から政治に携わり、持統、文武の代に高い地位にあり、晩年には右大臣として議政官の頂点にあった。従二位右大臣。
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[編集] 出自など
阿倍氏は多くの支族をもつ有力氏族であり、支族は分かれて地名を重ねて氏の名とした。布勢氏(普勢氏)もその一つである。御主人は阿倍内麻呂の子。『公卿補任』が記す没年の年齢から逆算すると、舒明天皇7年(635年)生まれとなる。
陰陽道の宗家である土御門家の先祖ともされる。平安時代初期の「竹取物語」には「左大臣あべのみうし」の語があるが、恐らくモデルはこの阿倍御主人であろう。キトラ古墳の被葬者であるとする説が提唱されている。
[編集] 天武天皇の時代
672年の壬申の乱では、大海人皇子の側に立ったことだけが知られる。阿倍普勢臣御主人がこのときの功績で100戸の封戸を与えられたことが、『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条にある。
天武天皇13年(684年)11月1日、阿倍臣は朝臣の姓を与えられた。
天武天皇の時代には、納言として太政官で働き、政治の枢要にあずかった。しかし文献上の初見は天武天皇死後の朱鳥元年(686年)9月28日で、この日の天武天皇の葬儀で直大参の布勢朝臣御主人が大政官(太政官)のことを誅した。翌持統天皇元年(687年)1月1日、皇后(持統天皇)、皇太子(草壁皇子)、公卿、百寮人が殯宮で慟哭したとき、納言の布勢朝臣御主人が誅した。
持統天皇2年(688年)11月11日、天武天皇が大内陵に葬られたとき、布施朝臣御主人は大伴御行とともに誅した。
[編集] 持統天皇の時代
御主人は持統天皇の代に高市皇子、多治比島に次ぎ、大伴御行と並ぶ地位にあった。
持統天皇4年(690年)1月2日、すなわち持統天皇即位の翌日に、布勢御主人朝臣は、丹比島(多治比島)とともに、賀騰極(即位祝賀の言葉)を奏した。官人を代表しての祝辞であろう。
持統天皇5年(691年)1月13日に、大伴御行とともに80の封戸を増し与えられ、前のとあわせて300戸になった。それまであった220戸のうち100戸は壬申の乱のときの功によるものだが、残る120戸はいつのものか不明である。布勢御主人朝臣の位は、御行と同じく直大壱であった。
持統天皇8年(694年)1月2日に、大伴御行とともに正広肆に位を進め、200戸を増して前のものとあわせて500戸となり、氏上になった。布勢朝臣御主人は、これによって阿倍氏の氏上になり、氏の名も阿倍と記されるようになった。逆に言うと、このときまで御主人は同族中の最高位であったにもかかわらず、氏上ではなかったことになる。
[編集] 文武天皇の時代
高市皇子が持統天皇10年(696年)に死んでから、右大臣多治比島が文武天皇の下での議政官の首座となった。阿倍御主人は大伴御行とともにこれに次いだ。701年には両人の死によって右大臣として2年間太政官の頂点に立った。
文武天皇4年(700年)8月22日に、大伴御行とともに正広参に上がった。巡察使の報告により国司に与えられた賞の一部だが、他の二人、因幡守の船秦勝と遠江守の漆部道麻呂と異なり、御主人と御行には任地の国名がない。
大宝元年(701年)1月5日に、布勢朝臣御主人は中納言、従三位になった。これまでずっと並んできた大伴御行はこの日に大納言となり、一段上に出たが、1月15日に死んだ。3月21日に阿倍朝臣御主人は大納言になり、同日に右大臣、従二位に進んだ。これは『公卿補任』の説明である。
『日本書紀』は1月5日の任官には触れず、15日の大納言正広参大伴御行の死亡記事を載せる。その後、3月21日に大宝令にもとづく官位が施行されたときに、右大臣の多治比島が左大臣に、大納言正広参の御主人が右大臣に任命されたとする。同時に御主人は正従二位の位を与えられた。前の位が大宝令の前の「正広参」であることが『公卿補任』と矛盾する。
同じ年の7月21日、壬申の年の活躍によって与えられた100戸の封戸の功が中第と評価され、4分の1を子に伝えることが許された。この日に多治比島が死ぬと左大臣は空席となり、右大臣の御主人が臣下の最高位になった。
大宝3年(703年)1月に刑部親王(忍壁皇子)が知太政官事になると、御主人の地位はそれに次ぐものとなった。その年の閏4月1日に右大臣従二位阿倍朝臣御主人は死んだ。石上麻呂が遣わされて弔し、贈り物をした。
[編集] 年譜
- 舒明天皇7年(635年)、1才。生まれた。
- 天武天皇元年(672年)、37才、阿倍普勢臣御主人が壬申の乱で功を立てた。
- 朱鳥元年(686年)9月28日、51才。天武天皇の葬儀で直大参布勢朝臣御主人が大政官(太政官)の事を誅した。
- 持統天皇元年(687年)1月1日、52才。納言の布勢朝臣御主人が天武天皇の殯宮で誅した。
- 持統天皇2年(688年)11月11日、53才。天武天皇が大内陵に葬られたときに誅した。
- 持統天皇4年(690年)1月2日、55才。布勢御主人朝臣が持統天皇の即位を祝賀した。
- 持統天皇5年(691年)1月13日、56才。直大壱の布勢御主人朝臣の封戸が80戸を増し、300戸になった。
- 持統天皇8年(694年)1月2日、59才。布勢朝臣御主人が正広肆に位を進め、氏上とされ、封戸に200戸を増して500戸とした。
- 文武天皇4年(700年)8月22日、65才。阿倍朝臣御主人が正広参に位を進めた。
- 大宝元年(701年)1月5日、67才。布勢朝臣御主人が従三位となり、中納言に任命された。
- 大宝元年(701年)3月21日、67才。大納言正広参の御主人が正従二位右大臣になった。
- 大宝元年(701年)7月21日、67才。壬申の年の封100戸が中第と認定された。
- 大宝3年(703年)閏4月1日、69才。死去。
- 慶雲元年(704年)7月22日。右大臣従二位阿倍朝臣御主人の功封100戸の4分の1が子の広庭に伝えられた。