陳珪
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陳珪(ちんけい、?-?)は、後漢末期の官僚。字は漢瑜。陳屯の曾孫、広漢太守陳亹(ちんひ)の孫、太尉陳球の甥、呉郡太守陳瑀・汝陰太守陳琮の従兄弟、陳登の父。
『三国志』や『後漢書』によると、190年代ころに徐州・沛国(現在の江蘇省沛県を中心とする地域)の相であった。あるとき(195年ころか)、揚州を中心に漢朝から半ば独立して大勢力を築いていた袁術から配下となるように求める文書が到来した。陳珪と袁術はともに漢の大官の子孫であり、若いころから交遊があったことからの勧誘であったが、陳珪は時勢は皇帝を推戴した曹操によってまとまり始めており、 漢朝に仕え続けると答えてこれを拒否した。また、袁術が徐州を支配していた呂布に縁談を持ちかけた際には、この二人が提携することで後漢末の騒乱がさらに深まることを恐れ、呂布にもちかけて破談させた。怒った袁術が張勲を将軍として大軍で徐州に攻め込むと、呂布は陳珪に「貴公のために袁術が攻めてきた」となじるが、陳珪は巧みな離間の計で袁術軍を壊乱させて破った。その一方で息子の陳登を使者として首都許昌に遣わし、呂布に左将軍の官位を与えて有頂天にさせるとともに、曹操に呂布を討つようそそのかした。
『三国志演義』では、こういった陳珪の活躍を巧みさと老獪さを織り交ぜてふくらませている。ただ、陳珪が心を寄せていたのは曹操ではなく劉備であったとしていることが異なる。