須田満親
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須田 満親(すだ みつちか、大永6年(1526年) - 慶長3年(1598年))は、戦国時代の武将。須田長義の父。官位は相模守。
もとは信濃国高井郡の土豪であり、村上義清と共に武田信玄(晴信)の信濃侵攻に対抗したが、1553年に武田軍の侵攻の前に敗れて、義清と共に越後の上杉謙信(長尾景虎)のもとへ逃走した。以後は謙信の家臣として仕え、1561年の第4次川中島の戦いにも参戦している。しかし満親は武勇よりも交渉能力に優れており、特に信濃の土豪時代には信州の一向宗とも親しかった関係から、謙信からは一向宗との顔役として用いられることが多かった。
謙信没後は上杉景勝に仕える。河田長親の死後、長親に代わって越中方面の総指揮官となり佐々成政との戦いに従事、越中魚津城主となるが、1583年成政に城を明け渡して退去、信州海津城代に転じた。景勝からも武将としてではなく交渉役として用いられることが多く、1585年には真田昌幸との交渉役を務め、同年に昌幸が徳川家康に攻められると(上田城の戦い(第一次))、昌幸の次男・真田幸村を人質として預かっていたことから、昌幸の救援を景勝に強く進言した。ちなみに、昌幸救援のために上杉軍の指揮を任されたのは、満親である。
しかし昌幸がやがて幸村の身柄を上杉家から奪還し、豊臣秀吉の家臣となったことから、景勝は満親を疎み始めたという。このため、満親は上杉家にいづらくなるが、豊臣秀吉は満親の交渉能力を高く評価し、自らの直臣として登用するだけではなく、豊臣姓まで与えているのである。1592年の文禄の役では、秀吉の家臣として出兵している。
1598年に死去した。享年73。
一時、越中国人舟見氏の名跡を継ぎ、舟見宮内少輔と名乗っていた。