顕尊
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顕尊(けんそん、永禄7年1月22日(1564年3月5日) - 文禄4年3月3日(1595年4月12日))は、興正寺第十七世門主。諱は佐超。本願寺第十一世門主顕如の次男。母は三条公頼の3女の如春尼。妻は冷泉為益の娘(元誠仁親王妃)。幼名は阿古丸。号は花恩院、諡号は往還院。
4歳で興正寺一六世証秀の養子となる。1569年脇門跡である興正寺を継承し、1575年に父・顕如を戒師として正式に得度すると、直ちに法眼に任じられた。石山戦争では、外部から父の籠る石山本願寺を支えて、安芸の毛利輝元と図って兵糧を石山本願寺に運び入れる工作を行う(これが縁で顕尊の死後、息子の准尊が輝元の養女を妻に迎えている)。
父が石山本願寺を退去するとこれに従い、紀伊国 鷺森・和泉国 貝塚・摂津国 大坂 天満と移り住む。1589年に権僧正となり、2年後に顕如が豊臣秀吉の斡旋で京都七条に本願寺を再興すると、その南隣に土地を与えられ興正寺を再建した。
父・顕如の死後の後継者争いでは、異母弟の准如を支援して自分の娘の阿古をその正室とした。