飯川光誠
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飯川 光誠(いがわ みつのぶ、生没年不詳)は、日本の戦国時代の武将で、能登の戦国大名畠山氏の家臣。新次郎。大炊助。宗玄。主計助。若狭守。
畠山義総の寵臣半隠斎宗春の縁辺の人(孫か?)。飯川氏は前の能登守護家吉見氏の守護代を勤めた家柄である。光誠は、第二次畠山七人衆で年寄衆に加わる。弘治の内乱では畠山義綱と土豪衆との仲介役を務め、義綱専制期では義綱の補佐と常に義綱に従い活躍する。永禄九年の政変で義綱が能登を追放された時も、義綱に追従して近江国に逃れ義綱亡命政府の中枢となった。まさに義綱の政権の中枢人物といえ、義綱にとって最高の忠臣であった。