香西元長
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香西元長(こうざいもとなが、生年不詳 - 永正4年8月1日(1507年9月7日))は、香西元直の子。細川氏の家臣。山城国半国守護代。嵐山城主。
香西氏は元来讃岐国の武士であるが、元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。元長は明応6年(1497年)に山城下郡守護代に任ぜられた。なお上郡守護代であったのは赤沢朝経である。永正4年(1507年)に、主である管領細川政元の丹波出陣に際して役銭供出を拒否した賀茂社を焼き討ちしている。
政元の後継者を巡る争いで元長は細川澄之を支持していたが、澄之が家督を継承する望みが薄いことを悟ると薬師寺長忠・竹田孫七らと共謀し、同年に政元を暗殺して澄之を当主として擁立した。しかし一度は競争相手である細川澄元を京都から伊賀へと駆逐するが、細川高国や澄元らの反撃を受けて澄之の邸宅であった遊初軒での戦いで戦死した。