高島秋帆
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高島 秋帆(たかしま しゅうはん、1798年(寛政10年) - 1866年2月28日(慶応2年1月14日))は、江戸時代後期・幕末期の砲術家。名は茂敦。通称は糾之丞、四郎大夫、喜平。号は秋帆。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号すことを認められた。
1798年、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、自らオランダ語や洋式砲術を学んで、私費で銃器等を揃え1834年に高島流砲術を完成させた。また、この年には、佐賀藩武雄領主鍋島茂義が入門、翌1835年免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を鍋島茂義に献上している。
その後、清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、秋帆は幕府に意見書を提出して武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術の公開演練を行なった。幕府からは砲術の専門家として重用され、江川英龍や下曽根金三郎らからは師匠として尊敬された。秋帆は江川らに砲術を伝授していたが、幕府から重用することを妬んだ鳥居耀蔵の讒訴により1842年に投獄されてしまった。
1853年、赦免されて出獄した後は幕府の鉄砲方、講武所砲術の師範となる。そして、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。1866年、69歳で死去。講武所では、これまで調練でオランダ語を使って号令をかけていたものを、日本語体系に改め『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者は本間弘武で秋帆は監修)。そのとき翻訳制定された「号令」が今日、学校や自衛隊にも受け継がれ「気をつけ」(当時は「気を着け」と表記された)「休め」「前へ進め」「立て銃(たてつつ)」「担え銃(になえつつ)」等と定着し、歩兵が背負った背嚢は当時「ランドセル」と呼ばれ、これが後の世に「小学一年生」のシンボルとなって親しまれることとなった。また、現代の褐色包装用紙である「ハトロン紙」は当時の紙早合(かみはやごう=紙製弾薬包)の意のオランダ語「パトロン」用紙の系譜を引くもので、当時の「銃文化」が今日の日本人の生活にもかかわっていることが、これらの語からわかる。また、東京都板橋区の「高島平」はその場所が高島秋帆によって洋式調練が行われたことに因んだものである。