鳥居耀蔵
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鳥居 耀蔵(とりい ようぞう、寛政8年11月24日(1796年12月22日) - 明治7年(1874年)10月3日)は江戸時代の幕臣。後に忠耀(ただてる)と名乗る。官位:従五位下甲斐守。「耀蔵」は甲斐守任官前の通称。胖庵と号する。
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[編集] 家系
実父は大学頭を務めた幕府儒者の林衡(はやし・たいら)(号・述斎(じゅっさい))で耀蔵は三男。旗本・鳥居一学の養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。弟に、日米和親条約の交渉を行った林復斎がいる。
[編集] 略伝
水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川六蔵、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って洋学者の江川英竜と対立。このときの遺恨が従来の保守的な思考も加わり洋学者を嫌悪するようになる。翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら洋学者を弾圧する遠因となる。また、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部は家が改易され桑名藩に幽閉、ほどなくして絶食して憤死する。
栗本鋤雲の評「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。彼のような人物とは刑場の犬のようなものである」
木村芥舟の評「鳥居耀蔵は若いときから才能があったが、西洋の学問を嫌い、洋書を学ぶ者を反逆者として根絶やしにしようとした。天保の改革を推進するためには邪魔者を陰険な手段で追い払った。この点は鳥居にとって多いに惜しむ所である」
勝海舟の評「残忍軽薄甚しく、各官員の怨府となれりといへども、その豪邁果断信じて疑わず、身をなげうつてかへりみる事なく、後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、悔ゆる色なく、老いて益勇。八万子弟中多くかくのごとき人を見ず。亦一丈夫と謂うべき者か」
天保の改革の際の鳥居の市中取締りは非常に厳しく、かつ、おとり捜査を常套手段とする等であり、当時の人々からはその名をもじって“妖怪(耀-甲斐)”の渾名を贈呈されるほど忌み嫌われた。また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎)が、水野・鳥居の政策に批判的な態度をとり、規制緩和を図ると、鳥居は水野と協力して、遠山を北町奉行から、地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居の失脚後に南町奉行として復帰した)。
天保の改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名、旗本の猛反発を買った際に、鳥居は反対派の老中土井利位に寝返り、水野時代の機密資料を残らず土井に横流ししたこともあり、水野は老中辞任に追い込まれ、天保の改革は頓挫してしまう。鳥居は、水野を裏切ったこともあってか従来の地位を保つことに成功する。
ところが、外交問題の紛糾から、それから半年後の弘化元年(1844年)水野は再び老中として幕政を将軍家慶から委ねられると、状況は一変する。水野は自分を裏切り、改革を挫折させた鳥居を許さず、仲間の渋川、後藤の裏切りもあって、その年の年9月に鳥居は職務怠慢・不正を理由に解任され、翌弘化2(1845)年2月22日有罪とされ、10月3日、全財産没収のうえ、讃岐国丸亀藩に預けられる。これ以降、鳥居は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上お預けの身として軟禁状態に置かれたのであった。
丸亀での耀蔵には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。監視はきびしく時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりすることもあった。嘉永5年の日記には一年中話をしなかったという記述がある。そんな無聊を慰めるため、若年からの漢方の心得を活かして、健康維持のため幽閉屋敷で薬草の栽培を行った。また、自らの健康維持のみならず領民への治療を行い慕われた。林家の出身であったため学識が豊富で丸亀藩士も教えを請いに訪問し彼らから崇敬を受けていた。このように軟禁されていた時代の耀蔵は“妖怪”と渾名された嫌われた奉行時代とは逆に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていたようである。
幕府滅亡前後はかなり監視も緩み、耀蔵は病と戦いながら様々な変化を見聞している。明治維新による恩赦で、明治元年(1868年)10月、丸亀を出発。耀蔵はここでも我を張り、自分は将軍家によって配流されたのであるから、将軍家からの赦免の文書が来ないと駄目だと言って容易に動かず、丸亀藩を困らせたという。東京と改名された江戸にしばらく居住していたが、明治3年、郷里の駿府(現在の静岡市)に移住、明治5年東京に戻る。晩年は、知人や旧友の家を尋ねて昔話をする平穏な生活に明け暮れ、明治6年10月3日、多くの子や孫に看取られながら波瀾に満ちた生涯を全うした。残された日記や詩文から、鳥居は自分を退けて開国したことが幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向けているのがわかる。
遠山は当時の江戸庶民の同情を買い、遠山イコール正義、鳥居イコール悪役の図式が出来上がり、ここから、後に講談や小説、映画やテレビドラマで人気を博することになる『遠山の金さん』ものの素地、及び必殺シリーズ等その他の時代劇での悪役としての鳥居のイメージが出来上がったといわれる。
[編集] 詩文
儒学者の家に生まれた耀蔵は詩をよくものにした。特に幽閉時代は無聊を慰めるため詩作に励んだが、自身の悶々とした思いが込められている。
「東京」(赦免されて二十三年振りに江戸=東京に帰ってきたときの述懐)
交市通商競イテ狂ウガ如ク
誰カ知ラン故虜ニ深望アルヲ
後ノ五十年須ラク見ルヲ得ベケレバ
神州恐ラクハ是レ夷郷ト作ラン
訳(人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
過去の罪人=耀蔵の想いなどだれもわからない。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。
[編集] 江戸幕府役職履歴
- 文政6年3月29日(1823年5月9日)、小普請組本多大和守繁文支配衆より中奥番に異動。石高2500石。
- 天保5年6月8日(1834年7月14日)、中奥番より徒頭に異動。
- 天保7年8月4日(1836年9月14日)、徒頭より西丸(内大臣右近衛大将徳川家慶)附目付に異動。
- 天保9年4月12日(1838年5月5日)、西丸目付より目付に異動。勝手掛兼帯。
- 天保12年12月28日(1842年2月8日)、目付より江戸南町奉行に異動。※在職中、従五位下甲斐守に叙任。
- 天保14年5月4日(1843年6月1日)、500石を加増。
- 6月11日(7月8日)、印旛沼古堀普請御用兼帯。
- 8月13日(7月10日)、勘定奉行・勝手方を兼帯。
- 8月15日(7月12日)、重ねて印旛沼古堀普請御用兼帯。
- 10月17日(12月8日)、勘定奉行兼帯を解く。
[編集] 関連書籍・作品
- 松本清張『天保図録』
- 松岡英夫『鳥居耀蔵』(中公新書)ISBN 4121010493
- 童門冬二『妖怪といわれた男 鳥居耀蔵』(小学館) ISBN 4093796270
- みなもと太郎『風雲児たち』
- 荒山徹『魔岩伝説』(祥伝社)
- テレビアニメ『天保異聞 妖奇士』
他、鳥居耀蔵を好意的に書いている小説として
- 平岩弓枝『妖怪』 ISBN 4167168758
- 宮城賢秀『妖怪犯科帳』シリーズ:鳥居耀蔵を主役とする異色の連作。