高橋竹山
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高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年(明治43年)6月-1998年(平成10年)2月5日)は盲目の津軽三味線奏者で戦後全国、そして世界に津軽三味線を広めた第一人者。本名定蔵。
3歳の時に麻疹にかかりこれを重症化させて非常に重度の弱視となった。その後近所のボサマ(盲目の門付芸人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習い、17歳頃から東北北部・北海道を門付けしたという。目は回復することなく22~23歳頃までに完全に失明した。1939年(昭和14年)結婚、相手も全盲だった。戦争が始まり障害者が芸に生きる厳しさを感じ1944年(昭和19年)に鍼灸師とマッサージ師の免許を獲得。戦後は1950年(昭和25年)から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行すると共に、1954年(昭和29年)からラジオ青森で民謡番組を担当した。元来、津軽民謡には三味線伴奏の付いたものが少なく、「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」の津軽三もの、と呼ばれるものに加えて、「津軽あいや節」ほどでしかなかった。成田雲竹は、竹山に唄の伴奏を依頼したのみならず、それ以外の津軽民謡にも三味線伴奏を付けるように依頼した。高橋竹山を語る時に、この点を評価し忘れられている。長らく自分も含めた三味線演奏者が不当に低い扱いを受けていると感じていた事もあって、地位の向上を目指し、伴奏楽器に過ぎなかった三味線が主役となる曲を自ら作曲。雲竹・竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘し発表した。
1964年(昭和39年)に独立した後は渋谷ジァン・ジァンのライブなどで多くの若者の心を捉え、全国に津軽三味線ブームを巻き起こした。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。その存在、演奏は国やジャンルは違うがブルースで言うところのロバート・ジョンソンに匹敵する。晩年は声もほとんど出せなくなっていたが衰えを自覚しながらも現役を退かなかった。1998年2月5日声を失なう原因となった咽頭癌により死去、享年87。弟子に、高橋竹与であった高橋竹山 (2代目)がいる。