鮫島重雄
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鮫島 重雄(さめじま しげお、嘉永2年9月6日 (旧暦)(1849年10月21日) - 昭和3年(1928年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。階級は陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。
薩摩藩士鮫島藤兵衛の次男として生まれ、明治4年御親兵に入る。明治6年1月から陸軍教導団に入営し同6月陸軍伍長に任官される。明治7年3月陸軍士官学校生徒、同9年陸軍少尉試補・東京鎮台附となる。明治7年の台湾出兵に際し台湾蕃地征討軍に編入される。明治8年3月陸軍工兵少尉に任官され、明治10年2月から西南戦争に出征する。4月に工兵中尉に進み第1旅団参謀を命ぜられ、同10月帰還する。明治11年2月から工兵第1大隊中隊長に移り、明治12年3月参謀本部管西局員、明治14年4月工兵大尉、明治16年2月には近衛師団参謀を命ぜられる。明治18年7月に工兵第3大隊長心得に移り、明治19年3月陸軍大学校副幹事心得を経て同5月陸軍工兵少佐に進み陸軍大学校副幹事に進む。明治20年6月の監軍部参謀、明治22年の近衛師団参謀を経て明治27年6月18日工兵大佐・近衛師団参謀長に進み、明治28年4月から日清戦争に出征する。戦後中部都督部参謀長となり明治30年9月28日には陸軍少将に任官される。明治33年4月25日に由良要塞司令官に就任し、明治35年5月5日東京湾要塞司令官に移る。明治37年9月5日に陸軍中将に進級し大本営附を命ぜられ、同10月日露戦争に出征する。戦中の12月1日第11師団長を拝命し、明治39年4月1日勲一等旭日大綬章を受章し同7月6日第14師団長に移る。明治40年9月21日日清・日露戦役の功により男爵を授かり華族に列せられる。明治44年9月6日陸軍大将任官と共に後備役編入となる。昭和3年4月17日薨去。重雄に後継者はなく、爵位は継承されなかった。
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