鳥居成次
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鳥居 成次(とりい なりつぐ、元亀元年(1570年) - 寛永8年6月18日(1631年7月17日)は、甲斐谷村藩の初代藩主。父は鳥居元忠(成次は三男)。母は松平家広の娘。子に鳥居忠房、娘(井上正利室)。官位は従五位下、土佐守。
三河国生まれ。幼名は久五郎。幼少時より父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでも活躍して戦功を挙げた。父は先の伏見城攻防戦で石田三成らによって攻め殺されていたが、戦後に三成の身柄を父の仇として預けられた。しかし成次は三成を少しも恨まず、逆に小身ながら大身の主家によく抗した人物として、衣服を与えて手厚く厚遇した。三成はこのとき、成次を大いに賞賛したといわれている。そして関ヶ原の功績により甲斐郡内で2万石(一説に1万8000石)を与えられた。慶長20年(1615年)の大坂の陣においても戦功を挙げ、翌年から徳川忠長付となる。
元和4年(1618年)に忠長が甲斐に入ると、朝倉宣正と共にそれを補佐する附家老となった。そして補佐においても功を挙げたため、駿河国において加増を受け、3万5000石を領すようになる。1631年6月18日に死去。享年62。後を長男の鳥居忠房が継いだ。法号は林伯趙英。
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