御附家老
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御附家老(おつけがろう)とは、徳川幕府初期、将軍家血統の貴公子が藩主(大名)になった際に、将軍より直接命を受けて附属された家老のことである。江戸時代では、将軍から付けられたので「御」をつけて呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。徳川御三家の附家老5氏が著名。
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[編集] 任務
政務や軍事の補佐を行うとともに、藩主の養育の任も受けていた。したがって身分としては、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強い。時代が下るにしたがって藩ごと、附家老家ごとに考え方に差ができ、藩主に忠実に仕えて将軍家と対抗しようとしたり、逆にいたずらに藩主と対抗したり、藩内で派閥抗争を繰り広げる人物もあったようである。
[編集] 御三家の御附家老
[編集] 尾張徳川家
- 平岩氏(尾張犬山12万3000石)
- 竹腰氏(美濃今尾3万8000石)
[編集] 紀伊徳川家
- 水野重仲が元和5年(1619年)7月19日より徳川頼宣の附家老となる。明治元年(1868年)1月24日明治政府により10代忠幹が大名と認められる。
[編集] 水戸徳川家
- 水野氏(安房・上総国内 石高不明)
[編集] 御三家以外の御附家老
- 小笠原氏(尾張犬山1万石)
- 小笠原吉次が慶長5年(1600年)11月より松平忠吉(尾張清洲52万石)の附家老となる。忠吉が慶長12年(1607年)3月5日没し、無嗣により除封されたため、吉次は慶長12年(1607年)閏4月29日下総佐倉へ転封され大名となった。
- 松平重勝が慶長19年(1614年)より松平忠輝(越後高田60万石)の附家老となる。忠輝が元和2年(1616年)7月5日不行跡により除封されたため、元和3年(1617年)12月下総関宿へ転封され大名となった。
- 朝倉宣正が寛永元年(1624年)より徳川忠長の附家老となる。寛永9年(1632年)忠長に連座し除封された。