黄書大伴
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黄書 大伴(きふみ の おおとも、生年不詳 - 和銅3年 (710年)10月14日 )は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は造、後に連。氏は黄文とも書く。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側にたって活躍し、天武天皇、持統天皇、文武天皇の三代に仕えた。贈正四位下。
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[編集] 壬申の乱での活躍
黄書氏は、渡来系の氏族である。壬申の乱勃発当時、黄書大伴は大海人皇子の舎人として皇子のそばにいたと考えられている。子に粳麻呂がいる。
大海人皇子は、6月24日に吉野で行動を起こす際に、倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴を求めた。このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人が選ばれた。皇子は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子と大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが、得られなかった。命令に従い大分恵尺は近江に向かい、逢志摩は大海人皇子のもとに引き返したが、黄書大伴の行動については『日本書紀』に明記されない。
黄書大伴は、大伴馬来田と吹負の兄弟に挙兵を告げたらしい。大伴兄弟は大海人皇子側につくことを決め、吹負は倭の争奪戦に乗り出し、馬来田は大海人皇子の後を追った。黄書大伴は、同日中に馬来田とともに吉野宮から皇子の一行を追って、莬田(大和国宇陀郡)の吾城で合流した。この後の黄書大伴の行動については記録がない。
[編集] 功臣のその後
『日本書紀』には、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事があるので、黄書大伴もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。また、功により黄文大伴が100戸を封じられたことが『続日本紀』大宝元年 (701年)7月21日条から知られる。
天武天皇12年(683年)9月23日に、黄書造は連の姓になった。
朱鳥元年(686年)8月9日に天武天皇はなくなった。8月28日に、直大肆の黄書大伴と同じく直大肆の藤原大島は、飛鳥寺に高僧を集めて一人に一領の袈裟を与えた。これは持統天皇の指示によるもので、袈裟は天武天皇の服を縫って作ったものであった。
大宝元年(701年)に黄文造大伴の壬申の乱での功績が中第と評価され、前に与えられた100戸の4分の1を子に伝えることが定められた。
大宝3年(703年)7月5日に、正五位下の黄文連大伴は山背守になった。山背国は後の山城国である。
和銅3年(710年)10月14日に正六位上[1]で死んだ。壬申の年の功によって、正四位下と物を贈られた。
霊亀2年(716年)4月8日に、子の黄文粳麻呂が父の功によって田を与えられた。
[編集] 注
- ^ 林陸朗『完訳注釈続日本紀』には正五位上とある。新日本古典文学体系『続日本紀』は、諸本みな正六位上だが誤りか、とする。
[編集] 参考文献
- 『日本書紀』(新編日本古典文学全集)3、小学館、1998年。ISBN 4-09-658004-X
- 『続日本紀』(新日本古典文学体系)一、岩波書店、1989年。ISBN 4-00-240012-3
- 林陸朗・校注訓訳『監訳注釈続日本紀』、現代思潮社(古典文庫)、第2版1989年(初版1985年)。ISBN 4-329-00375-9