黄興
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黄興(こう・こう、1874年10月25日-1916年10月31日)は清末・中華民国初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称される。字は厪吾。
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[編集] 初期
湖南省長沙の名門出身。張之洞の両湖書院に学び、民族主義を唱道し革命を志すようになる。1899年に唐才常が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡する。1901年に来日し東京で弘文書院に入り、章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進める。当時の極東では日露間に満州問題が起こっているのに乗じ、義勇団体・拒俄団を組織して乱を起こそうとしたがこれも成立しなかった。長沙に帰り、明徳学堂で子弟の教育に従い、革命思想を鼓吹する。
[編集] 華興会
1903年に宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織しその総理となり、湖南にある哥老会の頭目・馬福益と連絡を取る一方、広西義軍と協力し革命計画実行に邁進したが、事前に両湖総督・張之洞に探知され、翌年には上海に逃亡した。そこで広西巡撫・王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕されたが、数日で釈放され東京に亡命した。
[編集] 中国同盟会と辛亥革命
1905年にヨーロッパから日本に到着した孫文と結び、華興会は孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会と大同団結を遂げ、孫文を首領とする中国同盟会を組織し、「滅満興漢・民国革命」をスローガンとし、中国革命運動に転機をもたらす。黄興はその後、南中国・東南アジアを遊説し、党勢拡張と党員指導にあたり、南洋華僑より資金を募集するとともに地下活動に着手した。1907年に広東省欽州・廉州・潮州や広西省鎮南関で、1908年には雲南省河口で挙兵したがいずれも失敗、1911年には広東省城奪取を計画し、広東総督衙門を襲撃したが成功せず、いわゆる黄花崗七十二烈士の犠牲を出した。
ところが同じ年に武昌起義が勃発したので、黄興は長江をさかのぼって武漢に到着し軍を指導して、革命成就のきっかけをつくる。まもなく清軍が漢陽を奪回すると上海に下って、革命軍に推されて大元帥となったが、その後副元帥となる。南京に臨時政府が組織されると、陸軍総長兼参謀長に就任し、もっぱら軍事を掌握した。
[編集] 民国成立後
1912年(民国元年)に宣統帝が退位し南北統一政府が組織されるさいに、袁世凱より軍部の要職に就くよう懇請されたが辞して、南京留守役として江南の各軍を統括していたが、これもまもなく辞めて上海に滞在するようになった。政府が無謀な外国借款を繰り返すのに反対し国民捐募集を唱道した。1913年3月の「第二革命」には、孫文に呼応して南京に拠り討袁軍を起こしたが敗れ、日本をへてアメリカに逃亡した。1915年に袁世凱が皇帝を称し「第三革命」が始まると日本に赴き、その翌年に上海に帰った。当時は孫文一派と感情的に衝突していたが、次第に融和し、護国軍や旧国会議員と連絡を保ち種々画策するところがあったが、その年のうちに病死した。