張之洞
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張 之洞(ちょう しどう、1837年9月2日 - 1909年10月4日)は、清の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称される。
[編集] 生涯
1837年、直隷(現在の河北省)・南皮で生まれた。16歳で郷試に合格し、26歳で進士となった。西太后が強引に光緒帝を擁立した際、それを支持する態度をとったことから引き立てられ、1880年代に山西巡撫、両広総督、湖広総督と歴任し、主に武漢を拠点として富国強兵、殖産興業に努めた。清仏戦争、日清戦争においては強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた。1890年に鉱床が見つかった大冶鉄鉱山の開発をドイツとともに進め、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。19世紀末におこった変法運動に対しては、著作である『勧学篇』(1898)の中で「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。