黒木為楨
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黒木 為楨(くろき ためもと、天保15年3月16日(1844年5月3日) - 大正12年(1923年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 通称は七左衛門。
[編集] 生涯
薩摩藩士帖佐為右衛門の子として薩摩国鹿児島城下下加治屋町に生まれる。のち、黒木万左衛門の養子となり黒木姓を名乗る。
戊辰戦争に従軍。薩摩藩の小銃隊を指揮して、鳥羽伏見の戦いで幕府歩兵を集中射撃により敗走させ、宇都宮城攻防戦では城壁に突進して取り付き、城兵潰走のきっかけをつくった。
明治維新後明治4年(1871年)御親兵となり近衛大尉となる。西南の役では歩兵第12連隊長として出征。日清戦争では第6師団長として威海衛の攻撃に参加。戦後男爵。
明治36年(1903年)陸軍大将。日露戦争では第1軍司令官として鴨緑江から奉天会戦まで連戦した。ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。戦功により伯爵を授けられた。
明治42年(1909年)予備役。大正6年(1917年)枢密顧問官となる。
大正12年(1923年)2月3日午後10時、肺炎のため東京市青山の自宅において没。享年80(数え)。
後を三次が継ぐ。三次は帝都復興院参与・貴族院議員を務め正三位勲三等伯爵に昇る。為楨三男の清は内閣総理大臣黒田清隆陸軍中将伯爵の子、黒田清仲伯爵の養嗣子となり、伯爵の爵位を継ぐ。
薩摩武士らしい豪傑タイプの猛将で、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人であった。それを証明するかの様に、面白半分に相撲の相手を挑んできた明治天皇を容赦なく投げ飛ばし叩き付けたと云う逸話が残っている。
野戦指揮官として長年の経験と勘を生かした優れた采配を見せ、日露戦争開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕による所が大きい。しかしその猪突猛進型の性格が災いし、総司令部の意思に反した突出を見せる事があり、奉天会戦時には余りの突出ぶりに満州軍総司令部より再三「進撃中止の」命令を出されている。
日露戦争終戦後は他の軍司令官の大半が元帥位に登りつめたが、黒木だけは大将で軍歴を終えている。軍歴や功績を考慮すれば元帥に任命されてもおかしくは無いのだが、黒木本人がお飾りだけの名誉職としての元帥位を嫌い、最後まで現場の指揮官としての地位を好んだと云う説もあるが(同僚に書いた手紙の中に、その様な内容が記されいている物が残っている)、その剛直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったと云うのが理由であるとされている。