38度線
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38度線(38どせん)は韓国と北朝鮮の軍事境界線。北緯38度付近に位置することからこう呼ばれている。韓国では38線と呼んでいる。また、38度線は韓国と北朝鮮の事実上の国境でもある。
目次 |
[編集] 第二次世界大戦の終結と南北分断
朝鮮半島の南北分断は、日本統治時代に、北緯38度線の南側は朝鮮軍、北側は関東軍の管轄であったことがきっかけだとも言われる(かつての軍事独裁期の韓国の歴史研究ではこのことが強調され、半島分断の主たる責任は日本という意見が強かった)。とはいえ実際に38度線で南北分割するように進言したのは、アメリカ国防総省の若い役人で、うちの一人は後に国務長官となるディーン・ラスクだった(近年の韓国ではこちらが強調され、米国が分断の主たる原因とされている)。
1945年2月に行なわれたヤルタ会談において、第二次世界大戦後は、敗戦国日本による朝鮮半島統治を終わらせ、その代わりに、朝鮮半島の北緯38度線以北をソ連が、それ以南をアメリカが分断して占領することが決定された。そして第二次世界大戦後、予定通り、以北をソ連が占領し、以南を米国が占領した。一方、朝鮮半島内では、日本の敗戦より朝鮮人による自立を始めようとしたが、右派と左派のそれぞれの思惑が入り混じり、アメリカやソ連の思惑などもあってまとまらず、1948年には北緯38度線を境に以北を金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国を、以南が李承晩を大統領とする大韓民国という2つの国家に分裂することになった。この当時(第二次世界大戦後から朝鮮戦争勃発まで)の境界線は、ほぼ北緯38度線上ぴったりであった。
[編集] 朝鮮戦争と停戦ライン
その後1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、1953年に板門店で休戦協定が結ばれた。この際、休戦協定直前の最前線が停戦ラインとされ、停戦ラインから南北2㎞ずつを非武装地帯(DMZ, Demilitarized zone)と呼ばれる緩衝地帯として設置し、半島を横切る無人の地域となっている。また南北双方は侵入を防ぐ目的で、非武装地帯を何重にも鉄条網や高圧電線で囲い、幅4㎞の帯状のこの地域に多くの地雷を敷設している。以後この停戦ラインは軍事境界線として、2006年現在も南北の事実上の境界線となっている。
占領政策で北緯38度線上に1本の境界線が引かれたこと、そしてその南北に異なるイデオロギー政権が生まれたことが3年間の朝鮮戦争の原因となり、各方面へ多くの犠牲をもたらした。しかし、南北の境界線は、戦争中に南へ北へと移動しても消えることはなく、結局、戦争をもたらした北緯38度線の付近に、停戦ラインを引く結果となってしまったため、朝鮮戦争は意義のない戦争であるといわれることがある。
現在、38度線といえば、この停戦ラインを指すことが多い。 ただし、停戦ラインの38度線はあくまでも「付近」であり、実際には西南西から東北東へ向かういびつな線となった。そのため、第二次世界大戦後朝鮮戦争が起きるまでは南側であった黄海道の海岸部や京畿道の開城は朝鮮戦争停戦後には北側となり(ただし北側になってからの開城は京畿道ではなく、直轄市あるいは特別工業地区などとして統治された)、逆に江原道の一部(束草市など)は北側から南側となった。
韓国鉄道の路線では、京元線がこの38度線をまたいで運行されている。同線が38度線を越す位置には、それを現す標柱なども立てられている。
[編集] 北緯38度線が横断する国
- アメリカ合衆国
- アフガニスタン
- イタリア共和国
- イラン・イスラム共和国
- ウズベキスタン共和国
- ギリシャ
- スペイン
- タジキスタン
- 朝鮮民主主義人民共和国
- 大韓民国
- 中華人民共和国
- チュニジア共和国
- トルクメニスタン
- トルコ共和国
- 日本国(宮城県白石市など)
- ポルトガル共和国
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Korea-DMZ(日本語)