アルミニウス主義
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アルミニウス主義(アルミニウスしゅぎ)は、オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウス(1550年 - 1609年)がカルヴァン主義の予定説に疑問を持ったことから生まれた神学的潮流である。 論争途中で亡くなったアルミニウスの死後、1610年に、彼の支持者たちが、ウーテンボハールトを中心に自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出、アルミニウス主義の認可を政府に求めたことから、レモンストランスと呼ばれた。この問題を解決するために1618年にドルトレヒト会議がもたれたが、この会議では、アルミニウス主義は公式に認められなかった。
アルミニウス主義の特徴を述べると
- 部分的堕落、部分的無能性;アダムの罪を受け継いでいる人間は、神の怒りのもとにあるが、神は人間に自分の意志で神に協力する力を与えているので、人間は、自分の力でイエスに救いを求め、回心のために備えることができる。
- 条件的選び;神はあらかじめだれがキリストを信じるか見ておられ、その予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶことを決める。⇔万人救済主義(ユニバーサリズム)
- 不特定の贖罪;キリストの贖罪は、彼を意識的に拒む者をも含む全ての人のためである。(信じないで救われるわけではないが、神の哀れみと恵みは予定されるものではない)
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9) - 可抗的恩恵;人間は救おうとする神の恵みに抵抗し、拒むことができる。
創世記3章において、神は「善悪の知識の実」を食べてはならない、と命じておきながら、見張っていて食べることを強制的に止めるようなことはしなかった。ご自分の形にお創りになった人間の自由意志を尊重された。ヨナ書を読むと、このままだと40日後にあなた方は滅ぶ、というヨナの使信について、ニネベの人々は無視することができたが、実際には、信じて悔い改めたので、40日後の滅びを主なる神は思い直された。 - 相対的保証;救われた者が堕落し、滅びることがある。彼らの最後の状態がどうなるかはいえない。
「正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、わたしは彼の前につまづきを置く。彼は死ななければならない。」(エゼキエル3:20)
「正しい人がその正しい行いから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌み嫌うべきことをするなら彼は生きられるだろうか。・・・(中略)・・・彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。」(エゼキエル18:24)
が挙げられる。
これに対しドルト信仰基準について簡単に言うと、
- 全的堕落(Total depravity)
- 無条件的選び(Unconditional election)
- 制限的贖罪(Limited atonement)
- 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace)
- 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)
であり、この五つの特質をもってカルヴァン主義の正統とし、この頭文字をとって、しばしば「TULIP」の神学と呼ぶ神学者もいる。
アルミニウス主義はこの逆であったわけだが、アルミニウスは、信じていなくても結果的に救われる(=万人救済主義、ユニバーサリズム)と考えたのではなく、「あなたがたは、行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、またわたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように彼らに教えなさい。」(マタイ28:20)とある聖書のことばが、カルヴァン派が恵みと神の予定、聖定を強調するあまり、あらかじめ決まっているのだから伝道しなくてもよいような、空しいような考え方に陥ってしまうこと、人間の自由意志を軽視している、ことをいいたかったのである。
つまり、アルミニウスは、神の主権と恵みが人間の自由意志とどのようにかみ合っているのか、と考えたのであって、ペラギウスのように、意思を働かせて努力すれば神のもとへ上っていくことができると考えたわけではなく、また、神の恵みの質量を保持するために、人的働きの意義を極限にまで減少させなければならないと考えたわけでもない。更に、創造者である神の主権が人間との関係において絶対的、不可抵抗的な形で行使されなければ主権の意義がないがしろにされるとは考えなかった。アルミニウスにとって、救いも信仰も人間の功績とは無関係に、キリストの恵みのゆえに与えられる神の賜物である。しかし、その信仰は、人が自分で受けて働かせなければ意味がない、先行していく恵みに対してついていくのかそれとも拒むのか、また神の一方的な愛に対してどのような態度を取り、どのように反応するのかは、人間の責任領域にあると言う。愛や礼拝の世界では、自発的に参加することは、強制的に中に引き込まれるよりはるかにすばらしいという道徳的原則を、神の主権は否定しない。
「自由な律法(=信仰によって救われているので、律法を守ることから自由になっている状態)にさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。・・・(中略)・・・〔喜ばしい確信にあふれる(=信仰によって救われた状態)〕あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。・・・(中略)・・・だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。」(ヤコブ2:12~14)「兄弟また姉妹の誰かが、着るものがなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、・・・(中略)・・・その人たちに、・・・(中略)・・・必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。」(ヤコブ2:15~16) 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)
しかし、アルミニウスの後継者の中から、救いにおける人間の役割を強調するあまり、ペラギウス主義や半ペラギウス主義に陥ってしまう者が現れたという事実と、聖書をよく読むと判るように、実は両派は聖書の伝えたいことを別の面から言い換えていることから、カルヴァン主義者も、論争から離れてしまえばアルミニウス主義者と同じように行動し、生活していることも事実である。
また、カルヴァン派とアルミニウス派には、19世紀以降、自由主義神学など多くの共通の敵に立ち向かわなければならなくなったため、現在では、お互いに相手を異端とはみなしていない。
なお、1784年にメソジスト派が英国国教会(聖公会)から独立したが、その際に同派は、アルミニウス主義を英国国教会から受け継いだ。そして、メソジスト派が母体となって、アメリカでホーリネス、ナザレン、アライアンス、フリーメソジストなどの教会が生まれ、ホーリネス教会からペンテコステ派の流れが生み出されたが、全て、アルミニウス主義を受け継いでいくこととなった。