アレキサンダー・ヘア
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アレキサンダー・ヘア(Alexander Hare、17??年 - 1834年)はイギリス、ロンドン出身。 1826年にココス諸島で最初に移住した。
ヘアについての記録はまったく無いが、ロンドンの時計細工師の長男で、3人の弟がおり、(2弟と3弟はロンドンでヘア商会を運営しスマトラ島の胡椒貿易をし、4弟は、バタヴィアで宝石商を営んでいた)インドの商会に務め、東インド各地と交昜していた。 マラッカに移ってからは、いくらかの財をえていた。 なお、東インド会社のトーマス・ラッフルズとは友人である。 ヘアはイギリス占領時代、ラッフルズにボルネオ島のバンジャルマシンの理事官に任命された。 彼らはボルネオ島全体の指導権も獲得している。 この事は、当時のイギリス植民地官偵俆がいかに、ボルネオ島に関する知識が貧しかったかを示している。
ココス諸島に移住するさいに、ココヤシのプランテーションを始めた。その為にマレーシアなどから奴隷(奴隷と言ってもヘアは酷い事はせずココヤシ栽培の労働者としている)としてマレー人も連れて来た。そしてジョン・クルーニーズ=ロスもココス諸島にやって来て、 ヘアとロスの2人はあいついで島に移住したが、時を経ずして2人の関係は薄くなり、やがて敵意になった。 理由はヘアの方が地の利を得た珊瑚入り口の島々を占領し、ロスは一家を引き連れ珊瑚深くヘアの居住区であるサザーン島と言う島にココヤシ栽培をするため、基地を設営したことにある。
ロスはヘア商会の船長であり2000ポンドの資金を得ておりヘアには東インド会社に多額の借財があったため、弟達は、兄が帰国してその問題精算するよう求めていた。ロスはヘア商会に手紙を書き、ヘアの奴隷が奴隷商人の手を経ている事、これが続けば官憲お注目するところとなるだろうと知らせている。ヘアは結局、ロスから追い出された印象が強い。その後、ヘアは自分の後宮を置き去りにして1834年10月3日、たった1人でココス諸島を離れ、スマトラ島へ渡りジャワ島で1834年に死去した。