マラッカ
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州の標語: Bersatu Teguh | |
州歌: Melaka Maju Jaya | |
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州都 | マラッカ |
与党 | Barisan Nasional |
面積 | 1,650 km² |
人口 | 713,000 |
人口密度 | 432.1/km² |
国際電話番号 | 06 |
国際郵便番号 | 75xxx ~ 78xxx |
ナンバープレート | M |
公式サイト | [1] |
マラッカ(Malacca)はマレー半島西海岸南部に位置するマレーシアの州及び町。マレー語では(ラテン文字:Melaka、ジャウィ:ملقة)と表記しするが、同じく「マラッカ」、または「ムラッカ」と読む。「メラカ」という表記は誤読。東西交通の要衝マラッカ海峡に面する港市である。
目次 |
[編集] 歴史
スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが1396年頃マラッカ王国を建国した。マラッカ王国は1414年頃イスラム化し、香辛料の東西貿易における重要な中継港として繁栄を極めた。1405年には明(現在の中国)の永楽帝より命を受け遠くアフリカ大陸まで大遠征を行った海軍大将鄭和の艦隊も初寄港している。マラッカ王朝は朝貢貿易を通じ明国との同盟を強固し、北の大国シャム、南のアチェからの脅威を牽制していた。
1511年ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点とした。ポルトガル時代には要塞(サンチャゴ砦)やキリスト教会(セントポールチャーチ)が建設され、司令官が常駐していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。
1641年オランダ東インド会社がジョホールのスルタンの援助を得て、マラッカを占領した。オランダの東南アジアにおける拠点はジャワ島のバタヴィアであったので、マラッカはマレー半島で産する錫などを輸出する地方港に転落した。1824年の英蘭条約でスマトラ島のイギリス植民地と交換にイギリスに譲渡された。
1826年イギリスのトーマス・ラッフルズはペナンやシンガポールとともに英領海峡植民地を成立させたが、近代港シンガポールの台頭が著しく、マラッカの港湾機能は衰退した。
1941年、太平洋戦争時下3年8ヶ月の間マレーシアはイギリスに替わり日本軍に占領された。終戦後の1945年、再び海峡植民地に戻されたが、民族独立運動が高まり1957年8月31日マラヤ連邦(現在のマレーシア)として完全独立を遂げる。これに先立ち1956年2月20日、後にマレーシア初代総理大臣に任命されたトゥンク・アブドゥル・ラーマン氏がマラヤ連邦の独立宣言を行ったのは、このマラッカである。
1989年4月15日、マラッカは"Historical City"「歴史の都市」であると市政の承認を受けた。これを記念し毎年4月15日はマラッカ州で休日に指定されている。港湾都市として発達を遂げたマレーシア最古の首都マラッカは現在、観光都市として年間400万人を越える国内外からの観光客が訪れている。
[編集] 地理
[編集] 住民
マラッカの住民の大半はマレー人(約60%)や華人(約30%)だが、ポルトガル人の子孫(ユーラシアン:彼らは今でもポルトガル語の方言を話し、カトリック信仰を持つ)やその混血の子孫、中華系(ババニョニャ)、インド系(ママッおよびチッティ)も独自の民族を構成する。
[編集] アクセス
- 長距離高速バス:クアラルンプール、ジョホールバル他、マレーシア半島の主要各都市およびシンガポールからのバス定期便が就航している。
- KLIA(クアラルンプール国際空港)からは、空港リムジンサービスの利用が便利。
- 空港:バトゥー・ブレンダム空港(インドネシア国際定期便のみ就航)
- 鉄道:マラッカ市内北北東35キロにあるタンピン駅が最寄り駅である。
- タンピン駅は隣のネグリセンビラン州に位置し、マラッカ市内まで約1時間かかるため鉄道を利用する地元の人や旅人は少ない。