アレクサンドル・ゲルツェン
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アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・ゲルツェン(Алекса́ндр Ива́нович Ге́рцен, Aleksandr Ivanovich Gertsen 西ヨーロッパでは Herzen、筆名Iskander,1812年4月6日-1870年1月21日)は、ロシアの文学者・思想家。
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[編集] 生涯
富裕な地主とドイツ婦人との間に生まれた。1829年から1833年にモスクワ大学・物理数学科に学び、後の詩人オガリョーフとともにサン=シモン主義を信奉する学生グループを組織した。卒業の翌年に逮捕され流刑になり、1840年からペテルブルクに住んでベリンスキー・バクーニンらと交わり、ヘーゲル哲学の研究に没頭した。1841年再びノヴゴロドに流刑になり、一年後モスクワに移って小説『誰の罪か?1846-47年』『ドクトル・クルーポフ 1847年』『どろぼうのカササギ 1848年』、哲学論文『科学におけるディレッタンティズム 1843年』『自然研究に関する書簡 1845-46年』などを発表し、当時のロシア文壇・思想界の中心人物となる。ベリンスキーとともに〈西欧主義者〉としてスラブ派と論争した。1847年に国外を旅行し、1848年のフランス二月革命を目撃し、西ヨーロッパ社会への深い幻滅にとらえられる。1853年から1865年にはロンドンに住み、〈自由ロシア印刷所〉を設立し、文集『北極星』、隔週刊誌『鐘 Kolokol』を創刊し、これらはロシア国内に送られ地下出版物として左翼の著作家たちを育てた。同時に回想録『過去と思索 Былое и думы』の執筆に着手し、およそ十五年間書き続けた。晩年はロンドンを去って、ヨーロッパ各地に滞在したのち、パリに没しニースに埋葬された。
[編集] 思想
ゲルツェンは、マルクスとは別個にヘーゲルの弁証法と、唯物論、さらにはフランス社会主義者の知見をとりいれたが、ユートピア社会主義者はすべての問題を説明しなかったし、ゲルツェンが多くを負っていると感じたプルードンでさえ疑問を提出する以上のことはできなかった、という結論に達した。フランス二月革命でヨーロッパの革命を見限ったゲルツェンは西欧ではなく、いまだ資本主義の浸透しないロシアの方がより多くの社会主義への可能性を持つと考え、ロシア農民の保持する農村共同体を基礎として、資本主義段階を避けて社会主義へと到達するべきという、後のナロードニキの理論に近い展望を描くようになった。ゲルツェンはレーニンにより、「革命的民主主義者」という評価を受けている。さらに農民への土地均分というゲルツェンの政策には社会主義の要素は何もない、と。ただ、農民がロシア社会で重要な変革要因であり続けるかぎり、農民の平等を求める志向は革命的であり得た。
ゲルツェンは社会理論がどんなに完璧なものであり、それが私心のない人によって運営されようと常に不完全であると信じていた。だから、何らかの抽象や図式にしたがって人間性や個人を犠牲にしたり奴隷にしたりすることを正当化できなかった。「自由」や「生活」はそれ自体目的であるべきだという考え方は、ロシアの社会主義に関するゲルツェンの予想よりも重要である。「未来がわれわれの思いついたプログラムを演じる必要がどこにあるのか?」という言葉であらわされたゲルツェンの疑問は、マルクス主義をふくむすべての社会主義理論に当てはめられる。ゆえにゲルツェンは当時の専制だけではなく、「未来」や「進歩」の名による専制をも恐れたのであった。
ゲルツェンの本分は革命家ではなく、偉大なジャーナリスト、鋭敏な観察者にある。彼は他者を描写するだけでなく自己開示し文明を批判し国民性を洞察する。その理性的でユーモアとペーソスの入りまじった力強い散文は、どんな権威をも貫き、理論にひそむ欠陥を見逃さない。『過去と思索』は、亡命ロシア人によって書かれた同時代史の金字塔といえる。
[編集] 著作
上記の他
- フランス・イタリアからの手紙 1850年
- 向こう岸から 1850年
- ロシアにおける革命思想の発達 1851年
- ロシア革命と社会主義 1851年
- 古い同志への手紙 1869年(バクーニンへ宛てた書簡)