ノート:エホバの証人/archive6
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目は特定の版の削除が行われています。削除に関する議論はノート:エホバの証人/削除をご覧ください。
過去ログ - アーカイブは編集しないでください。新しい話題はノート:エホバの証人でお願いします。 |
archive1|archive2|archive3|archive4|archive5|archive6|archive7 |
目次 |
[編集] 61.22.157.95さんへ
あなたが書かれていることは、どちらかというと自説の展開と思われます。それはご自分のウェブサイトで行う方が適していると思うのですが・・・。O^tsuka 2005年12月28日 (水) 17:59 (UTC)
-
- (賛成) 61.22.157.95さんだけ空気が読めないと言うか、皆で協力して百科事典にしていこう、というのがウィキペディアの良い所なのに、自分の主張のみが正しいと思っているのではないでしょうか?--Bigkoro 2005年12月29日 (木) 08:30 (UTC)
- 警告:個人攻撃はWikipediaでは禁止されています。(Wikipedia:個人攻撃はしない参照)61.22.157.95 2006年2月6日 (月) 09:28 (UTC)
[編集] 輸血の項目について
輸血に関する問題は、この宗教団体の主要問題ともいえるものなので、項目を独立させて更に掘り下げてもいいかも知れないと思います。O^tsuka 2005年12月28日 (水) 17:59 (UTC)
輸血問題は、昔はかなり「異常事態」としてマスコミも注目しましたが、日本ではもともと「臓器移植否定」という一般の宗教界の流れがあるために、よほど騒ぎたい「キリスト教関係者」以外は手を出さない分野です。日本は臓器移植問題についてアメリカなどとは違う特殊環境にあるのです。なので、この点を考慮せずに「輸血問題」を騒ぐのはそういった日本の「文化」を考慮しない外国人の口車をそのまま鵜呑みにして主張していることをある意味で本人が露呈することになります。日本人は臓器や血液をエンジンパーツかオイル交換のように扱うことに本来的に拒否感を持っているのです。その上、非加熱製剤で生じた血友病エイズ問題という日本独特の要素も影響しています。低コストで使いやすかった「非加熱製剤」を利用した結果多くの血友病患者にエイズが生じました。多くの国民はそういった判断を下した病院や医師を訴えたのです。これは多くの医師にとって衝撃的なこととなりました。この事件により、医療機関は自分の判断で当たり前のように患者に輸血できるという時代ではなくなったのです。医師が「高価で使用が難しい」加熱製剤の利用も選択肢として提示していなければならないのと同じように「高コストで利用が難しい」不輸血治療も選択肢として提示しなければならない時代と今はなっています。仮に信者が不輸血で成功した治療を他の患者に輸血で治療を行い、不具合が生じた場合責任が生じかねない時代となったのです。それを「インフォームドコンセント」の原則といいます。十数年前の「輸血という当たり前の治療を拒否する」という論点は今では「JW批判活動をもっぱら行うキリスト教派関係者」だけしか利用しません。臓器移植・エイズ血友病問題・インフォームドコンセントの三点を日本における輸血問題を語る上で欠かすことは辞書を書くにはあまりに「恣意的」ないしは「古い知識による」主張といえるでしょう。2006年1月11日 (水) 14:27
違う問題を持ち込まないでください。臓器移植に抵抗感を持つ日本人は少なくありませんが、輸血への抵抗感を持つのはエホバの証人の信者くらいでしょう。輸血拒否が新奇であり、ルールが確立していなかったからこそ、マスコミで騒がれ医療関係者を悩ませたのです。インフォームドコンセントとの関係は重要ですが、臓器移植や薬害エイズとリンクすべき問題ではないと思います。203.141.155.228 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)
[編集] 「エホバの証人」と「信者」という言葉の違い
「辞めることの困難」の部分などをカットしました。
何ですか?「破壊的カルトであるエホバの証人においては、辞めることは大変な困難を伴う」とか、いろいろ書かれていますが、 あまり知識の無い方が書かれたのだと思いますが、大きな誤りがあります。
そもそも「エホバの証人」には「信者」というものは存在しないんです。
「聖書の勉強会」や「集会」に参加を勧められることはあるでしょう。ですが、一般の宗教団体のような、 「入会する」というシステムはエホバの証人には全くないじゃないですか。違いますか?
だから「脱会が困難」という言葉自体ムチャクチャです。
強いて言うなら、「信者」とは、「活発に奉仕活動などを行ったうえで(水につかるかたちの)バプテスマの儀式を受けて『エホバの証人』の仲間入りをした者」でしょう。 バプテスマを受けなければ「エホバの証人」とは呼ばれません。それ以外はせいぜい「聖書研究者」くらいの呼称くらいしか与えられず、「信者」「入信」「入会」という言葉が使われることはありません。
その他の記述も滅茶苦茶です。「信者を辞めた者は一切絶縁するべきであると決められている」って誰が決めたんでしょう?それ自体聖書の教えに反してる気がしますし、「エホバの証人」にしてみれば去る者に固執する必要性がないでしょう。別に信者から金を搾り取ってるわけでもないんですから。せいぜい「楽園に行けなくなる、可哀想に」くらいです。
ただ「辞めたくても辞められない状態で苦しむ信者は相当数居られるといわれる。」というのは、あるでしょう。 ただこれも、別に「脱会届」だとか「脱会します」という意志を誰かに示さなければいけない必要がないのですから、「誘ってくれる手前顔を出さなければ気まずい」というレベルの話であって、「辞める」とか「信者」という言い方は適正ではないと考えます。
家をまわる巡回訪問だとか聖書研究だとか集会だとか、辞めたければ知人から申し込まれた借金を断るくらいの気持ちで参加を辞めればいいだけです。
「現在では自然消滅という形で信者を辞めるパターンが定着しつつある。」と書いてありましたが、これが全てですよ。入信も脱会もないのですから、自然消滅する人はする、ダラダラ続ける人は続ける。 そのなかで書かれていたような葬儀がどうのこうのという問題が発生することはあると思います。それは「辞めることの困難」とは別です。
「高校に行くことを推奨していない」なんて記述もありますが、エホバの証人がため高校に進学しない関係者がどれだけいるのでしょうか? —以上の署名の無いコメントは、Redcrimsoncross(会話・履歴)氏が[2006年1月2日 (月) 15:12 (UTC)]に投稿したものです。
「辞めることの困難」の記事は、61.22.157.95さんの一連の編集により削除された記事を加筆して復活させたものです。
全体的にみて、あなたの仰っていることはエホバの証人に対する不理解によるものだと思いました。 記事からリンクしている外部サイトや関連書籍をお読みになればご理解いただけると思います。 信者という言葉の問題についても、単なる言葉遊びのように思えます。教団内では「信者と非信者(或いは未信者)」という区別を設けていることは有名な事実であり、協会の出版物にも登場する単語ですので、記事に書く上で問題にする必要はないと考えます。
「辞めることの困難」、「教育を受ける機会の喪失」の記事はいずれも事実に合致した内容のものであり、改訂の余地はありますが削除するべき理由は見当たりませんでした。O^tsuka 2006年1月4日 (水) 17:06 (UTC)
「辞めることの困難」については、既成宗教でも頻繁に見られる現象であり、その制裁も危害を加えるような形ではないため、殊更言及する必要は無いと判断しコメントアウトしました。203.141.155.228 2006年1月9日 (月) 09:37 (UTC)
- エホバの証人を辞める際に生じる困難、あるいは辞めてから生じる困難については、この教団独特の問題があります(詳しくは外部サイト等をご覧ください)。これはカルト問題としては共通するものであるかもしれません。確かに物理的な攻撃を伴ったリンチ等はありませんが、精神的虐待とも言える厳しい絶交や忌避は教義として定められており、それはこの教団に関わった人間に深い傷を与える問題として確実に存在しています。このような脱会者に対する不当な処罰があるため、辞められないままに教団内で苦しんでいる人間が存在していることもまた事実です。
- 各所からこの問題が指摘されている以上、この宗教の問題として記述することは問題ないと考えます。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:18 (UTC)
- 信者が教えを否定する小説を書くと大々的に死刑宣告が出る既成宗教も、本人の出自によっては改宗と同時に違う民族になってしまう既成宗教もあります。むろん、改宗、背教に対する考え方は重要ですから、教義の一つとして厳しい絶交や忌避に触れるのが良いと思います。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
-
- 破壊的カルトの特徴の一つに、「組織からの離脱について極度の恐怖心を与える」というものがあるようです。中立性に気をつけるなら、この点について指摘することに問題はないと思います。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
記事にリンクされているサイト・書籍等はいずれも中立的立場で書かれた物では無いように感じますがいかがでしょうか?そのような反対もしくは賛成に寄った文章で問題の項目の正当性を主張するのは間違いだと感じます。ぜひともそのような外部リンクに代弁を頼まずO^tsukaさん自身の言葉で項目の正当性を主張していただきたいものです。 (IP:125.174.101.1さん、2006年2月3日 (金) 16:43 投稿)
- 署名を、出来ればログインしてお願いします。とりあえずご指名なのでお返事いたしますが、Wikipediaは何かを主張する場ではありません。詳しくはWikipedia:ガイドブック等をご覧ください。O^tsuka 2006年2月4日 (土) 16:32 (UTC)
[編集] 既成のキリスト教会との比較
記事の中で既成キリスト教会と比較している箇所があり、それを「特定宗教の宣伝」として削除した方がいらっしゃいますが、エホバの証人もキリスト教を名乗っている以上、対比されるのは当然ではないでしょうか。 過度に既成キリスト教会の利点ばかりを強調するのは問題だとしても、削除された記事の記述が問題になるとは思えないのですが。 O^tsuka 2006年1月7日 (土) 16:52 (UTC)
- その削除の記事(既成キリスト教会との対比:2箇所)を執筆をしたのが私です。エホバの証人について調べたいと思っている方が、既成キリスト教会とどの様に違うのか、分からないと困りませんか?既成キリスト教の宣伝ではなく、読む側の立場に立って執筆したのですが、ごく一部の方が誤解されてはとても残念です。--Bigkoro 2006年1月8日 (日) 13:22 (UTC)
- 宗教の記事で他の宗教・宗派と比較する場合は、普通は近縁の宗教・宗派の間の違いを明確にすることが目的です。誰の目にもエホバの証人に特有である部分について、そのような解説を入れる必要はありません。また、エホバの証人と一般社会の間で起きている問題に、既成キリスト教会を持ち出す理由もありません。百科辞典のらしさを損なうだけと判断して削除しました。203.141.155.228 2006年1月9日 (月) 09:32 (UTC)
-
- 輸血拒否の問題が世間を騒がせたこともあり、キリスト教やクリスチャンというと「輸血を拒否する宗教」のことだと思っている方もいらっしゃるようです。そう言う意味でも、違いについて記述することは意味のあることだと思います。また、エホバの証人は聖書を根拠として様々な教義を打ち出しているわけですから、比較対象として既成キリスト教が挙げられるのも当然ではないかと思います。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:18 (UTC)
-
- 認識不足でした。既成キリスト教との混同が広まっているとすれば何らかの形で比較しておく必要がありますね。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
-
-
- 私は無心論者ですが、エホバの証人の問題点を指摘した上で、「既成キリスト教の教会では・・」とことあるごとに書いてあるのは、「既成キリスト教の方が優れている」といいたいのでしょうが、無心論者の私からみれば「わが宗教がベスト」という手前味噌にすぎず、「中立的な観点」とはいえません。既成キリスト教がどう考えているか、仏教がどうしているか、イスラム教がどうしているかなど全部かけるわけもありません。こうした記述は一律に排除するべきです。
-
-
-
-
- 私は今既成キリスト教とエホバの証人の違いを調べていたので、大変よく解りました。エホバの証人が聖書を根拠としているなら、既成キリスト教との比較はあってほしいところです。ただ「既成キリスト教のほうが正しい・優れている」と感じさせる記述であるならば、それは配慮が必要かと思います。
-
-
[編集] 科学的根拠
感染症は病原体感染が原因ではないといった主張に対して、科学的根拠がないという記述は問題ないのではないでしょうか。 神さまの存在は科学的根拠がないといったものであれば問題でしょうが、そうではないのですし・・・。O^tsuka 2006年1月10日 (火) 17:25 (UTC)
- 香油を塗ると病気が治ると主張する世界宗教も、豚肉は不潔であると主張する世界宗教も、水銀から不死の薬を製造できると主張する民族宗教もありますが、科学的根拠が無いという但し書きを見たことはありません。
- また、ラザフォードの時代の科学の水準も考慮する必要があります。例えば、当時は「脚気菌」に効くと称する下痢止め(東洋の島国ではいまだに売られているそうです)が使われていました。203.141.155.228 2006年1月10日 (火) 22:48 (UTC)
-
- 豚肉は不潔であるという主張と、病原体起源説に対する非難は次元の異なる話ではないかと思います。教団は、パスツールの死後何十年も経った後でも、パスツールへの根拠のない誹謗中傷を繰り返してきました。O^tsuka 2006年1月11日 (水) 17:26 (UTC)
-
- うーん、次元が異なるようには思えません。新しい宗教であるぶん見掛けが異なっているだけではありませんか?パスツール云々についても、地動説や進化論に対する伝統的キリスト教の態度に比べればおとなしいものだと思います。203.141.155.228 2006年1月12日 (木) 07:26 (UTC)
-
-
- キリスト教が弾圧していた行為も正しくなかったという点は指摘されるべきですが、ものみの塔の偽医療や疑似科学はその当時からインチキであることが指摘されていました。ものみの塔が医師会等に攻撃的になったのも、医師会のいかさま治療への警告が原因とも言われています。O^tsuka 2006年1月13日 (金) 17:05 (UTC)
-
-
-
- 科学的根拠云々について触れなければ、これらの問題を避けることができ、また必要な知識も十分に伝えることができます。203.141.155.228 2006年1月14日 (土) 18:02 (UTC)
- 病者の塗油に警告を出さないのは、多くの場合、毒にも薬にも治療の妨げにもならないし、誰も直るなどといってませんが? 無菌室に居るような状態では、当然医師が許しませんし、無理を通すこともありません。結果的に医療妨害になり医師と対立する教義と無理やり同列としようという姿勢に作為を感じます。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)
-
-
- 病者の塗油にははっきり病気治しを願う意味が含まれており(昔のカトリックでは違いましたが)、従ってある立場からは偽医療になります。また、無理を通すかどうかは本人の信仰のあり方で決まることです。医療妨害に関しても、今や宗教と無関係に「積極的な治療の拒否」が市民権を得てしまったので、種痘拒否やら輸血拒否やらもそれなりに尊重するか、逆に患者を無条件に治療する時代に戻せという立場でなければダブルスタンダードです。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
- 宗教の教義に科学的根拠が求められているわけではありませんが、偽医療や疑似科学については指摘されるべきでしょう。この点を指摘しないことは逆に中立的な観点に反することになると思います。この点で「科学的根拠云々」以外でよい指摘方法があればお願いします。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)
-
-
-
-
-
- 半世紀前の主張に対して偽医療だの疑似科学だの書くことは、中傷と受け止められても仕方無いと思います。「逆に中立的な観点に反する」という点はちょっと理解できません。最大限譲歩しても、「医師などからは、このような主張は非科学的であるとの非難を浴びていた」です。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
-
-
-
-
-
-
- 対象が古いとはいえ、偽医療や疑似科学であったという指摘は事実であって、まして中傷に当たるというのは理解できません。ものみの塔が「人命を救ったこともなければ、天然痘を防いだこともない」と述べ禁止していた種痘は、当時から各国の法律で義務付けられていましたし、日本においても1909年には種痘を義務付ける法律が制定され、9割近い接種を達成していたようです。ものみの塔が種痘を批判し禁止したのは、それよりかなり後になってからのことです。また、非科学的な主張であったこと(当時の科学レベルでも十分に)を書かないことは中立的な観点に反すると思います。表現方法には気をつけるべきですが。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)
-
-
-
-
-
-
-
-
- 生きている人物に関する記事で「祖父は詐欺師であった」と書いたら、たとえ事実でも中傷にあたります。
- 科学そのものを信頼しない人々の主張に対して「非科学的だ」と書くのは、中傷であるだけでなく的外れです。
- 米国はいまだに創造論が大きな影響力を持つ国であり、科学の地位は現代日本と異なります。
- どうやら「中立的な観点」の定義がお互いで一致していないようです。各論の前に、まずはそこを一致させましょう。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- 「中傷」という言葉は、「ありもしないことをわざと言い立て、名誉を傷つける」という意味のようですが。
- 何がどのように中立的な観点に反するのでしょうか。中立的な観点に「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」とありますが、これに照らし合わせて問題があるとは思えないのですが。エホバの証人は科学そのものを信頼しない集団ではありませんし、何百万人という信者を指揮する立場の教団と、「ある人物の祖父」とを同列に語ることに意味があるとも思えません。創造論に関しては、完全に文化的な問題であって、この問題とは関係ないでしょう。当時米国でも種痘を義務付ける法律はあったわけです(証人たちが種痘を受けたことにするため医師に嘘の証明書を書いてもらった、などの話は有名です)。O^tsuka 2006年1月18日 (水) 17:57 (UTC)
-
-
-
-
はじめに、外掘から埋めようとして焦点をぼかしてしまったことをお詫びします。仕切り直しということで、単刀直入に述べます。
「〜に科学的根拠が無い」という言葉は、形式的には根拠が科学以外にある可能性を残していますが、事実上「〜は誤りである」という意味を含みます。特に、具体的な反駁を伴わない形で使われるのは、大抵非難の文脈においてです。中立性を重んずる場所でこのような言葉を使う場合、相応の理由が必要です。
ところが、対象になっているのは宗教団体の主張であり、しかも半世紀以上前のものです。宗教の主張は、最も外から口を挟むべきでないものの一つであり、特に伝統宗教なら健康被害などを出してもなかなか非難されません。また、あくまで過去の主張ですから、科学的根拠が無いなどと述べる切迫した必要性もありません。従って、単に歴史の一ページとして過去の主張を紹介して、特に評価(あるいは評価と受け取られやすいもの)を差し挟まないのが望ましいと考えられるのです。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 10:32 (UTC)
- 主張に科学的根拠がなかった、という記述は、Wikipediaの中立的な観点に反するものではないと思います。客観的事実なのですから、これを記述しない理由はありません。宗教団体の主張は疑似科学であってもその記述が出来ないとか、事態が切迫していないと記述できない、といった方針はないはずです。
- 単に宗教の教義のみであれば、口を挟むなということも理解できますが(但し反社会的な教義で批判が多い等の場合は、その点についての記述は不可欠でしょう)、教団が科学的内容の伴った疑似科学的な言説を繰り返してきて、また種痘拒否等によって多くの死傷者を出した以上は、この点を記述しないと重要な情報を欠くことになると思います。この問題は、より最近の臓器移植拒否や輸血拒否の問題と繋がってくる点でもあります。O^tsuka 2006年1月19日 (木) 16:54 (UTC)
- 「科学的根拠が無かった」というのは、「水は100度で沸騰する」とか「種痘拒否などを実践した者に死傷者が出た」と同じ種類の「客観的事実」でしょうか。日本の言語習慣からして、むしろ「教団の主張は誤りである」という意見の表明に近い、というのが私の主張の根幹です。箇条書された主張が通常の意味での科学と異なっていることは誰の目にも明らかであり、わざわざ科学的根拠が無かったなどと述べることで記事に反教団の色を付ける必要はありません。203.141.155.228 2006年1月19日 (木) 23:55 (UTC)
- 「科学的根拠がなかった」というのは客観的事実です、間違いなく。また、私は個人的にはエホバの証人に批判的な立場に立っています。でも、私は、宗教的主張に対して科学的裏づけを暗に要求するようなその記述には違和感があり、その一文を無条件に載せることには反対します。「科学的論説らしきものを捏造してまで主張した」など、宗教の領分を踏み越えた主張を繰り返す事について述べているのだと文脈上誤解のない形でなら、好きなだけ批判してやってください。LR 2006年1月20日 (金) 02:19 (UTC)
-
-
- 「宗教的主張」と「宗教団体の主張」は似て非なるもので、宗教団体であっても疑似科学的な主張をする例はいくらでもあるかと思います。ご指摘の通り、記述では「疑似科学的」な主張であったことを強調する必要がありそうです。O^tsuka 2006年1月21日 (土) 16:15 (UTC)
-
-
-
-
- まず、「宗教的主張」と「宗教団体の主張」の差はかなり形式的なものです。これらは教学のような活動でようやく区別される性格のもので、しかも宗教自身にとっての重要性を必ずしも反映しません。また、科学への言及が宗教の領分を踏み越えているというのも偏見です。歴史的に見れば、宗教はしばしば「全ての知識」を扱い、固有の理論と技術を作り上げてきました。医学などに深く踏み込むことも(そして死人を出すことも)決して珍しいことではありません。現代であれば、独自の思考法で科学と接触し、一般的な科学と異なる結論を出したりします。いずれにしても、宗教は決して神仏と倫理だけを語るものではなく、公平であるためには「何でもあり」という態度を取らねばならないのです。203.141.155.228 2006年1月21日 (土) 22:57 (UTC)
-
-
では、どのような表現にすると良いでしょうか・・・。私は疑似科学的な主張であったことを強調することで、客観的事実だけを述べ、中立的な観点にも合致した記述が出来ると思うのですが、この点、他の方のご意見も伺ってみたいです・・・。O^tsuka 2006年1月24日 (火) 16:53 (UTC)
- 「なんでもあり」なら、それは記述されるべきですね。また、宗教団体内部での重要性など一切関係ありません。もちろん宗教学的な判定は「外部が」するのが「中立」です。極論な例として「本人の承諾の元、悪霊にダメージを与える聖なる棍棒(?)で悪霊憑き(?)を滅多打ちにしたら悪霊も離れた(?)が信者も結果的に死亡した」なんて事件がおきたら、ハテナを全部無視して「棍棒で滅多打ちにして撲殺した」とみなされ悪霊祓い師の無罪はありえませんよ。科学は司法根拠になり、宗教はなりませんのでね。LR 2006年1月25日 (水) 03:22 (UTC)
-
- まず、「外部が」する判断が「中立」、というのはWikipediaでは二重の意味で間違っています。一つには、外部からの判断は一般的には「客観的な事実」を決める方法として使われていますが、これはWikipediaの事実の定義とは異なります。「深刻な争いが無い」命題がここでいう事実であり、LRさんの例でいえば悪霊祓い師の言い分も尊重しなければなりません。二つ目は、事実だけを書いているからといって中立的とは限らないということです。「どのような特定の観点も全く表明しない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)」というのが中立性です。DHMOの記事を読めばその意味が分かるはずです。このように考えると、わざわざ疑似科学的であるなどと書けば、既成キリスト教やオウム真理教(現在の版)の記事に対し均衡を欠くという判断が出来るはずです。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)
-
-
- ここまで議論してなお、どのような点でWikipediaの中立的な観点に反するのかが不明確なままですね。疑似科学的であるという記述は、宗教的なものとの混同を避けるという意味でいい表現だと思ったのですが、全くそのようなことを書くなということであれば、逆に特定の立場に寄与するものになってしまい、中立的な観点に反するという可能性もあります。(宗教的な主張や言い分を)尊重することと事実を書かないことは全く違うことです。
- Wikipedia:中立的な観点#偏った意見を削除して良いかには
- われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。
- とあります。O^tsuka 2006年1月26日 (木) 17:14 (UTC)
-
-
-
-
- 宗教的なものとの混同を避けるという意味が分かりません。「宗教的な主張」と「宗教団体の主張」の区別が恣意的であることは既に指摘しました。また、一般的な科学と異なる主張であることは自明なので、疑似科学的であるという記述に情報としての価値は乏しく、単なる事実上の批判になってしまうと思います。医師会などとの対立があった、という記述であれば有意義だと思います(互いに批判し合っているので「医師会などからの批判」より「対立」が望ましい)。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
-
-
-
-
-
- LRさんO^tsukaさん大変ですね。
- 私セクトの項を出したものですけど。こういう人種と話をしていると頭が痛くなってきませんか?どう考えても難しい理屈に持ち込むまでもなくエホバの証人が種痘を拒否させたから死人がでたというのは客観的事実で意見には見えないのですが。こういう話を書くのは中立的な科学雑誌や科学番組に近いとおもいますよ。それと中傷といっても公的な大きな団体に関する話や社会的に意味がある話ならば事実に基づいた誹謗中傷であっても普通は名誉毀損の対象にすらなりません。だから大丈夫だと思いますが?--210.147.40.241 2006年1月28日 (土) 21:37 (UTC)
-
-
-
-
-
-
- その節はお疲れ様でした。
- さて、事実を記述するのがWikipediaですから、宗教団体に限ってそれが出来ないというのはおかしな話です。「自明」であることを書かないというのはWikipediaの方針ではないはずですし、情報としての価値に乏しいから、単なる批判になるから書くべきではないと言う意見のほうが「恣意的」であると感じます。問題を記述する上である程度批判的記述になってしまうのは止むを得ないと思います、そういった事実がある以上は。教団にとって不利な事実や意見の存在を書かないというのはWikipediaの方針ではないはずです。O^tsuka 2006年1月29日 (日) 16:44 (UTC)
-
-
-
-
-
-
-
-
- 私の主張は、宗教団体に都合の悪い事実を書くなというものではありません。種痘拒否者に死人が出ていることなどは、大いに書くべき事実です。一方、科学的根拠が無いという言葉は事実と意見の中間にあり、用法によってその性格が大きく変わります。具体的な反証を伴っていれば事実の側に近くなり、逆に体内温浴健康法云々の後に書かれていれば事実上の批判になるわけです。あと、名誉毀損の条件より中立性の条件の方がずっと厳しいですよ。203.141.155.228 2006年1月29日 (日) 21:51 (UTC)
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- ここまで長々と議論してきましたが、結局は「科学的根拠が無い」と言う言葉が客観的事実なのか、あるいは意見としてみなすのかと言う点がが問題のようですね。私はこれまで述べてきた通り、それは「事実」であって、それを書くことによって教団にとって不利になったり、批判的・否定的な表現になったとしても止むを得ないだろうと言う立場です(当然表現には注意すべきですが)。議論が閉塞気味なので、他の方のご意見も伺ってみたいですね・・・。 O^tsuka 2006年2月1日 (水) 17:06 (UTC)
-
-
-
-
-
[編集] 中立的な観点とは何か
現在の版は、かなりエホバの証人に批判的な書き方になっています。まず、次のことを押さえてください。
- Wikipediaで言う中立性とは、客観性を意味しません。
- Wikipediaのポリシーは、疑似科学、差別主義などにも一定の敬意を持って記事を書くことを要求します。
- 誰もが事実と認める事柄でも、その組合せできわめて偏向した表現になることがあります(例:DHMO)。
- 「エホバの証人」のページは、「エホバの証人と既成キリスト教の比較」のページではありません。
このような視点から、例えば次のような記述は問題があると思います。
- 「〜であるとの反エホバの証人側の意見がある」のように「批判の存在」を至るところに書くのは、事実上反エホバの証人の立場に与することになります。
- 「既成キリスト教会では〜」という記述も同様の問題があるだけでなく、既成キリスト教会を持ち上げることになります。聖書の言葉を長々と引用する場合は特にそうです。
- 「〜の問題」という記述は、「〜」を問題であると捉え、さらに「〜」の責をエホバの証人に負わせる書き方です。
- 子供を鞭で叩くことは、定義から明らかに体罰ですが、虐待かどうかは教育観に依存します。(性的虐待については、教団も当然重罪とみなすでしょうから、虐待と書くことに問題はありません。)
- エホバの証人#フェアでない勧誘方法と、マインドコントロールの存在の部分は、広く報道されているような内容ではありますが、教団は否定するか、正当な勧誘方法であると主張するでしょう。
そのあたりを直そうというのがこの版なのですが、批判をまとめた部分以外ほとんどrevertされてしまいましたね・・・203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 13:21 (UTC)
- 意見の存在や出所を示すことがどうしてそれに与することになるのか、理解できません。仮にもしそうであっても、それならば逆にwikipediaに項目が立つこと自体がその団体や事柄や意見を肯定する事になりますから、同量の反対意見の併記なしには中立な記述は不可能、という結論が導かれて、貴方の具体的意見は却って不正なものになります。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)
Wikipediaは「宗教なんでも百科」ではなく、特定の思想を宣伝する場でもなければ批判する場でもありません。宗教・思想に関わる記事は否定派と肯定派の応酬になることが多いようですが、どうにかならないものでしょうか。現状は既成キリスト教からの視点が色濃く反映されており、汎神論者(私のこと)の立場から見ても、中立性が許容する範囲を逸脱しているように思えます。ハイゼン 2006年1月24日 (火) 02:09 (UTC)
- では、どこが問題なのか具体的な各論を批判なさってください。印象批判では、記事の改善には全く訳には立ちません。私からはむしろ、いわゆる「正統」な既成キリスト教からの教理的な「異端視」は慎重に抑制され、宗教観に拠らない社会的な振る舞いについて多くを裂いた、宗教的中立には十分配慮された記述であると評価できますが、自分に偏向や見落としがないとは申しませんので。LR 2006年1月24日 (火) 03:05 (UTC)
-
- 確かに、保護中の版については思想宣伝と受け取れる部分はありませんね(既成キリスト教を引き合いに出しているのは「母子室」のみ)。あt、「宗教何でも百科」の感覚で書くこと自体は問題ないかと思います。203.141.155.228 2006年1月26日 (木) 15:59 (UTC)
-
-
-
- 特定の宗教からの批判という形だと宗教対立を煽るような形になりますので、「既成キリスト教との主な相違」でしょうね。203.141.155.228 2006年1月28日 (土) 01:47 (UTC)
-
-
-
-
-
- 「既成キリスト教との主な相違」という項目を増やしてみては如何でしょう?ウィキペディアは百科辞典ですから、既成キリスト教とエホバの証人の違いが分からないから調べたい、という人もいらっしゃると思います。その際、具体的に聖書の何処に根拠があるのか、聖書の個所を明記すした方が良いと思われます。--Bigkoro 2006年2月16日 (木) 01:04 (UTC)
-
-
[編集] アーカイブ化
かなりノートページが長くなっていたので、とりあえず目次までの部分を除きました。アーカイブにするのは初めてで、手順等を間違っているかもしれないので、気付かれた方は直して頂けるとうれしいです。O^tsuka 2006年1月15日 (日) 16:40 (UTC)
目次より後の部分も長すぎるので、思い切って節単位でアーカイブに移してしまいました。ついでに、アーカイブへのリンクを独立させて(ノート:エホバの証人/archives)、includeする形にしてみました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 11:37 (UTC)
- ありがとうございます。すっきりしました。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)
archive5として新たに過去ログを作りました。ご覧になっていない方は確認していただければと思います。O^tsuka 2006年3月30日 (木) 16:36 (UTC)
[編集] エホバの証人への批判
- 中立的な記述になるように、表現をいくつか訂正しました。間違い等ありましたら、ご指摘のうえ訂正ください。教団に批判的な方も庇護される方も、中立的な見地による記述を心がけましょう。ここは意見ではなく、事実を書く場所です。210.165.117.249 2006年1月16日 (月) 17:34 (UTC)
- 署名がおかしくなっていたので修正しました。203.141.155.228 2006年1月16日 (月) 18:32 (UTC)
- 署名は半角チルダ4つ~~~~です。O^tsuka 2006年1月17日 (火) 17:01 (UTC)
- 事実も大切ですが、その事実について著述者の意見は絶対に書かないようにするべきです。最初の版はずたずたでした。また、情報を記す際、出典先を明記しておくべきです。--58.70.19.170 2006年2月3日 (金) 07:01 (UTC)
- すいません。トウシロウだったので・・・すみませんでした。—以上の署名の無いコメントは、Genkimorimori(会話・履歴)氏が[2006年3月3日 (金) 15:15 (UTC)]に投稿したものです。
宗教的・思想的信条に「事実」というのはいうのはあるのでしょうか。見方を変えれば違った見方が生まれる。我々の信じて疑わない客観というのも結局は主観の集合体でしかない。「真実」だと信じて投稿される内容についても、投稿者の主観から発せられる不安定な「真実」でしかない。しかし、それもまた一種の「真実」だ。であるとするならば、このサイトの評価内容は若干、平衡を欠いてる。その内容について悪意を含んでいるかとも受け取れる内容をそのまま掲載してはいないか。自由な意見を戦わせ、事実を追究しようとする姿勢について、全て反対ではない。しかし、運営側も、当然に発言者にも悪意的なニュアンスを帯びないようにことさら注意するべきではないか。それは、自由な発言の場を与えられている我々に課されている最低限度のモラルだと思う。 —以上の署名の無いコメントは、222.11.63.239(会話/whois)氏が[2006年3月17日 (金) 19:33 (UTC)]に投稿したものです。
- というか、「エホバの証人は誤っている」という偏った見地から記述されており、お世辞にも中立的な記述とはいえません。