オノレ・ドーミエ
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オノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier, 1808年2月26日 - 1879年2月10日)は、19世紀のフランスの画家。
ドーミエは、風刺版画家として知られるとともに、油彩画家としてもロートレック、ゴッホをはじめ、多くの画家に影響を与えた。
1808年、マルセイユにガラス職人の子として生まれた。職人であった父・ジャン=バティストは、文学趣味の強い人物で、詩人として身を立てるため、1814年(1815年とも)、家族を置いてパリに赴いた。ジャン=バティストの妻と子どもたちが父を追ってパリに出てきたのは1816年、画家ドーミエが8歳の時であった。一家の暮らしは貧しく、ドーミエは少年時代から弁護士の使い走りや書店の店員として走り回っていた。14歳の時にはアレクサンドル・ルノワールという画家(印象派のルノワールとは無関係)に師事して、ティツィアーノやルーベンスの技法を学び、有名な私塾・アカデミー・シュイスにも通っている。また、1823年頃、ベリアールという職人から、その当時発明されたばかりだった最新技術である石版画(リトグラフ)の技法を学んでいる。
19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率のさほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きかった。この頃、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物がいた。彼は版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にあったが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した。この頃の作品としては、版画『トランスノナン街、1834年4月15日』がよく知られている。
ドーミエは、生涯に4,000点近い版画を残したほか、数十点の彫刻、三百数十点の油絵を残している。彼の油絵は、生前にはほとんど公開されなかったが、当時のパリ市民の日常生活、当時の最新技術であった鉄道車両内の情景などを大胆な構図と筆使いで表現したもので、印象派や表現主義の絵画を先取りしたものとして、今日では高く評価されている。
晩年、1872年頃から眼の病気を患い、やがて失明に至っている。1879年、パリ郊外ヴァルモンドワで没した。
[編集] 代表作
- ドン・キホーテ(1868頃)(ミュンヒェン、ノイエ・ピナコテーク)