オラン
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オラン(英語:Oran アラビア語:وهران)アルジェリア北西部に位置する同国二番目の都市である。人口は897,700人。オラン県の県都である。
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[編集] 概要
アルジェリアの主要港の一つで、商業の中心地でもある。オラン市内には3つの大学があり、オランの旧市街部には、カスバや18世紀に建てられたモスクなどがある。
[編集] 歴史
オランはムーア人によって10世紀に創られたが、1509年にシスネロス率いるスペインに占領された。しかし、1708年になるとオスマントルコに征服されるようになった。1732年に再びスペインが奪い返したものの、オランの貿易都市としての必要性が下がったため、時のスペイン王、カルロス4世はオスマントルコにこれを売却した。オスマントルコの支配は1832年にフランスがアフリカの植民地の拠点としてアルジェリアを占領するまで続いた。
第二次世界大戦時には事実上半ばドイツ占領下にあるヴィシー政権下に置かれ、1942年後半のトーチ作戦で連合国によって占有されるまでそれが続いた。
フランス海軍の艦隊がドイツの手に渡るのを恐れたイギリス軍がフランスに対して鑑定をイギリスの港に回航すること、自沈すること、英軍と戦闘を交えること(艦隊を壊すため)などの最後通牒を突きつけるが、フランスはこれを拒否したため[1]フランス艦隊が停泊しているアルジェリアのメルセルケビールで戦闘が始まった(メルセルケビール海戦)。オランにも10隻ほど存在したためここでも戦闘が行われていた。
アルジェリア独立戦争が始まるまで、オランには北アフリカの中でも特に多くのフランス人を始めとした外国人が居住していたが、アルジェリア独立戦争が終わるまでにほとんどの欧州人やユダヤ人がフランスに去った。特にオランで起きた1962年7月5日の欧州人の大虐殺は、これを誘発した。これによりオランはわずか3ヶ月で人口が半分にまで減少した。
[編集] 文化
ラーイ音楽の発祥地であり、現在も盛んである。アラブ人で最も有名な世界的歌手の一人であるラーイ音楽歌手のシェブ・ハレドやラシッド・タハはここの出身である。
作家のアルベール・カミュやバイオリン奏者のアキム・エル・シカメヤ、ファッションデザイナーのイブ・サンローランもまたここが出身地である。