カク昭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郝昭(かくしょう、生没年不詳)は、魏の武将。字は伯道。子に郝凱。
太原の人。若い頃から軍人として曹操に仕えた。勇猛果敢で、各地に転戦して武功を立て、雑号(演義では雑覇)将軍となる。曹丕の代には河西一帯の守備を任された。西平郡の麹英が反乱を起こした時に、同僚の鹿磐と協力してこれを鎮圧し、麹英を殺害している。
228年に、蜀漢の諸葛亮が攻めて来て陳倉を包囲した。だが、郝昭は曹真の命を厳格に守り、わずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に撃退した。その状態が続いているうちに食糧難に陥り、止むなく諸葛亮は撤退したという。洛陽に凱旋した郝昭は曹叡からその戦功を褒め称えられ、列侯の爵位を与えられた。後年に郝昭が亡くなると嫡子の郝凱が家督を世襲した。 彼が臨終の際、息子に「私は将軍としてこの一生涯を生き抜いてきたが、将軍になどなるものではないぞ。 葬儀は全て質素なものにせよ。ここは我ら代々の土地では無いが、そんな事は気にせずに何処へでも埋めるがいい。 人は生きている間だけ居場所があるのであって、死ねばそんなものとは関わり無いのだからな!」と言い遺したという。
演義では同年末、郝昭が重病に倒れた隙を突いた諸葛亮が陳倉城を急襲して落としたことになっているが、実際は郝昭が病死したため、魏軍は陳倉の防備を放棄したのである。