カルラエの戦い
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カルラエの戦い | |
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戦争: | |
年月日: 紀元前53年 | |
場所: カルラエ近郊 | |
結果: パルティアの圧倒的勝利 | |
交戦勢力 | |
ローマ | パルティア |
指揮官 | |
マルクス・リキニウス・クラッスス | スレナス |
戦力 | |
44,000-52,000 | 重騎兵1,000-1,500 騎乗弓兵9,000 |
損害 | |
死者20,000 負傷者4,000 捕虜10,000 |
ごく僅か |
カルラエの戦い(カルラエのたたかい)は、紀元前53年に西アジアのカルラエで起こったローマ軍とパルティア軍の戦い。パルティアの圧倒的勝利。
[編集] 背景
紀元前55年にマルクス・リキニウス・クラッスス将軍は、グナエウス・ポンペイウスとの共同執政官を終了した。当時ローマでは、クラッスス、ポンペイウスとガイウス・ユリウス・カエサルが、三頭政治を行っていた。しかし、スパルタクスの反乱を鎮圧して以来ほぼ20年間に目立った活動はしていなかったクラッススは、最も容易な敵と考えたパルティア遠征を考える。元老院は遠征しないように説得したが、カエサルとポンペイウスが賛成したので、元老院はしぶしぶ納得した。
クラッスス率いるローマ軍は紀元前55年の終わりにシリアに到着し、アルメニア王Artabazesの協力でアルメニア山脈を越えずに直接パルティア王国へ向かった。迎え撃つパルティア王オロデス2世(Orodes II)は軍隊を2分し、歩兵部隊をアルメニアへ送り、騎兵部隊でクラッススを迎え撃つ準備をした。
両軍はカルラエ近郊で激突した。
[編集] 戦闘
パルティア軍は数では圧倒されてたが、1,000の重装騎兵と9,000の騎乗弓兵でローマ軍の重歩兵を撃破した。騎乗弓兵はローマ軍の密集戦術に対し連続で一斉射撃を行った。パルティア軍は矢による弾幕を行うために、ラクダで矢を運んだ。
ローマ軍が散開して騎乗弓兵に突撃すると、騎乗弓兵は退却するふりで距離を開け、馬上から後方に射撃を行い、ローマ軍を矢に対して効果的であるが、進軍速度が遅い防御陣形に変更することを余儀なくさせた。こうして足を止めたところに、重騎兵が突撃した。この戦術はパルティアンショットと称され、現在は英語で「捨て台詞」を意味する。ローマ軍は単純な密集隊形を採用していたため、騎兵が機動力を発揮できる地形では不利であった。ローマ軍の大きな盾は矢の一斉射撃に対して有効な防御策となったが、負傷する前に脱水症状と熱射病から衰弱した。
[編集] 結果
カルラエの戦いは、ローマが喫した大敗北のうちの1つである。この戦い中に、クラッススの息子プブリウス(Publius)は戦死し、首級はローマ軍から見える槍の上に晒された。クラッスス自身もこの戦いの後に殺害され、首級はパルティア王オロデス2世のもとへ送られた。パルティア軍の残り半分のアルメニア方面軍はアルメニア王国を征服し王を捕虜とした。しかしながら、この勝利によりオロデス2世は司令官のスレナスに疑念と嫉妬の念を持つようになる。スレナスの死後オロデス2世は自ら軍隊の指揮を執るようになる。オロデス2世はスレナとは違って戦いに慣れていないばかりか、器用ではなかった。このことは、ローマ軍よりはるかに弱いシリアでの戦争で失敗することで証明されることとなる。
クラッスス配下のガイウス・カッシウス・ロンギヌスはシリアから約10,000の兵を連れて帰り、2年間シリアをオロデス2世の攻撃より守る。その後カッシウスはパルティア軍を破り、この勝利でキケロから賞賛されることとなる。カッシウスは、紀元前44年のカエサル暗殺の重要人物となる。
カルラエの戦いによって、絹がヨーロッパ大陸にもたらされた。どうにか戦いを生き残ったローマ兵士は、パルティア軍の光り輝く旗(多分絹で作られていた)を見たことを報告した。ヨーロッパで絹への関心が大きくなっていったことが、シルクロードが中国から西ヨーロッパまで延長され、歴史上最も大きく最も豊富な通商路になっていくことの大きな原動力となる。