カン沢
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闞沢(かんたく、182年?-243年)は、呉の武将。字は徳潤。
会稽郡山陰県の人。農民の出身であったが、勉学に励んで学識を深め、郷里でも博識の人物と高く評価された。後に虞翻は、闞沢の博識を絶賛している。著書に『乾象暦注』がある。
孫権に招かれて、その家臣となった。孫権が皇帝に即位すると、尚書、中書令と昇進を続け、最終的には孫権の子・孫和の教育係となった。謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、呉における人望は厚かったといわれている。
三国志演義では、208年の赤壁の戦いのとき、黄蓋の苦肉の策に協力し、曹操のもとへ使者として赴いている。この時、黄蓋の降伏を疑った曹操を優れた弁舌で丸め込むなどの活躍を見せている(実際には弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかったという記述が、正史の「薛綜伝」にある)。また、222年の夷陵の戦いの時、陸遜を大都督に任命するよう、孫権に進言している。