黄蓋
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黄蓋(こうがい、 Huang Gai 生没年不詳)、字(あざな)は公覆、荊州零陵郡の人。郡の役人から孫堅に従い、孫策、孫権に仕えた呉の宿将である。孫堅の旗本四天王の一人。演義では「鉄鞭」を愛用武器としていた。子は黄柄。
[編集] 経歴
若い頃は父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、兵法の勉強に勤しんでいた。やがて孫堅が挙兵すると、これに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に活躍し、別部司馬に任命される。
孫堅の死後、一時的に袁術の配下に属するが、孫策の挙兵に伴い、程普らと共に再び孫軍団の中核を構成する。孫策の江東制覇に従ったが、主の早世に伴い、跡を継いだ孫権を支え、各地の反乱などを鎮圧した。 統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、法令に厳格な処罰をおこないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どこも無事に平定し、山越までもが信服し、人々は平穏に暮らした。
208年、曹操が江南に進軍し、赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜に従軍し、偽りの投降を用いた火攻めにて曹操を攻め立てた。また、赤壁の戦いで黄蓋は、流れ矢に当たってしまい長江に落ち、呉将である韓当に厠から救い出され、九死に一生を得たという逸話が残されている。
その後武鋒中郎将に任命され、武陵蛮が反乱を起こすと、500人程の兵を従え城門に誘い込んで、撃退し反乱を鎮圧した。さらに、山賊に長沙郡益陽県を攻められると、それもまた平定し偏将軍に昇進するが、黄蓋は病に伏せり、そのまま病没する。 呉の人々は彼を偲び、肖像画を描いて季節ごとにお祭をしたとのことから、住民に相当慕われていたようである。
死後、その配下の軍勢は孫皎が兄孫瑜の軍と共に指揮をしたと史書にあり、孫瑜が亡くなった215年頃に黄蓋もまた生涯を閉じた様である。
[編集] 演義での黄蓋
赤壁に戦いにおいて衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に対し奇策を提案する。曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って裏切る旨を伝えた。 その際に、偽りの投降を曹操に信じさせるため、周瑜との不和を演じ、また棒たたきの刑を受けている。孫軍に潜んでいた間者である蒋幹が曹操にこれを報告し、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、周瑜に対する不満によるものと思った。自らを傷つけてまで、起死回生の策を行うこの黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。
合戦が始まると、黄蓋は投降を装い曹操軍に近づいていき、軍船に積んだ薪や油に火を放ち、自軍の軍船を曹操軍の軍船に突入させた。龐統の連環の計によって密集隊形をとっていた曹操軍は、たちまち炎に包まれ大打撃をこうむる事となった。