サンシー事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サンシー事件(さんしー じけん)は、明治初期の沖縄県で起きた、県役人殺害事件をいう。
[編集] 概要
1879年(明治12年)4月、日本は沖縄県を設置した。ほどなくして、宮古島に首里から20名の警官が来島し、旧王朝以来の島役場「在番仮屋」を訪れて、在番代表の仲村親雲朝諒に、「廃藩置県を行ない、旧国王尚泰の支配する「琉球藩」を廃したうえ、日本から送る県令を執政官とする「沖縄県」を設ける、よって仲村ら島の高官を免職する。頭(かしら。今日の中間管理職程度の役職)以下は再任することになった。」と伝達し、辞令を交付した。しかし頭以下の者は「病気である」とか「その器ではない」などと申し出て、全員出仕を拒否してしまった。
これより前、王朝府から“ヤマトへの非協力の盟約の血判状を作って、日本に協力することなかれ”という趣旨の隠密な指示が藩領内各島に発せられていたので、ここ宮古島でも、仲村、与那覇親雲上、亀川恵備ら旧吏を中心に盟約を作り上げ、士族であるか平民であるかを問わず島民全てみな署名血判して書状を作成していた。無論士族に強制されてやむなく、という平民もいた。条文にはさらに違約したときは当人を断頭に処し、親族を「所払ヒ」(流刑)にすることも付け加えられた。頭以下の者が沖縄県に応じなかったのもこれが理由であった。
やがて在番仮屋が廃されて、「沖縄県警部派出所」が設けられたが、島内の下里村在住の士族、下地利社(しもじ りしゃ)という25歳の若者が、同年7月8日、この派出所に通訳兼雑用人として採用され、県官吏の下僕として働くようになった。
島民はただちに盟約を破った下地の両親と弟を、約定に従い伊良部島へ所払ヒにした。さらに進んで下地本人を速やかに断頭に処すべきであったが、勤務先が警察関係だけになかなか手を下すことができず、ただ裏切り者の沖縄県政賛成者、「サンシー」(賛成の意)として非難し、機会を窺って監視を続けていた。(『サンシー』と呼ばれたのは間違いないが、下地の諱(いみな)が「三姓(サンシー)」だったからという異説もある)
ところで島には「藍屋井(アイヤカー)」という、天然泉井を利用した共同水汲み場があった。下地が派出所に採用されてからさして日を経ないころ、島内の西仲宗根に住む金城松という者の妻が、藍屋井で他の婦女と「下地は殺されねばならん」などと噂をしていたところ、水汲みに来た下地と出くわしてしまった。「県吏」下地はこの頃驕り高ぶるところがあり、この女の髪を掴んで派出所門前まで引き立てるという、傍若無人な振る舞いを見せた。一説によると引き立てたのではなく陵辱に及んだという。
この話が島に広まると、同年7月22日、下里村の士族にして、以前は「下地頭」という旧吏でもあった奥平昌綱ら数名に率いられた島民約1,200名は、ある者は木棒、またある者は櫂、日用品の鈍器などまで手にして、口笛・法螺貝等を吹き鳴らしながら罵声を轟かせて派出所前に押し寄せ、四囲を取り囲んで投石を繰り返し、「下地を引き渡せっ」と迫った。
県吏は下地を屋根裏に隠し、抜刀して対抗したが衆寡敵せず、群衆は下地を引き出すと、頭髪、両手に荒縄を幾本も結わえつけ、あたかも材木をそうするかのように、十数町もズルズルと引きずり回した。「人煙が充満し(派出所から)現場まで鮮血が筋を引いて太く残っていた」(宮古島史)というおぞましい光景であった。
あてどもなく引きずり回してゆくうちに、下里村の南方にある空き地にたどり着いた。ここで奥平らが主唱して、愈々頭部を切断しようと巨木に縛めた。すると誰が始めたかわからないが、おのおの凶器や素手で、動けぬ下地を散々になぶりはじめ、東仲宗根村の「不知畩(しらぬい)」という者が打擲した時、遂に息絶えてしまった。群衆は遺骸を解き放ち、櫛原嶺の洞窟に投げ棄てた。
そのころ県内各島を巡回中であった警部安楽権中を乗せた汽船が、島の漲水港に入港するところであったが、大騒擾を傍観していた島民から事情を聞くと、踵を返して那覇へ戻り、宮古の異状を伝えた。県警察部の園田安賢二等警視補は、3名の警部と邏卒45人とともに島に急行。「竹鋸等を相携え、在番所近傍の山上に群れ集っていた」兇徒を散消させ、その日から旧吏員らに事情をきき始めた。
すると先の「盟約」やそれに関連する旧王朝要人の存在などが明るみに出たので、県庁に仔細報告の上、県政に服従させるためもあって、旧在番所で拷問を伴う峻烈な取調べを始めた。全島から30通以上の血判状が発見され、首唱者も特定できた。
以後県は県民、とくに支配層に懐柔策をとるようになり、騒動の規模に比べると処罰者は少ない。同年8月2日、首魁奥平昌綱は捕らえられ、那覇に送られて県庁で懲役5年を申し渡され獄につながれたが、県政混乱を謀って投獄された囚人の脱獄計画を密告するという、変節ぶりを示し模範囚として減刑されている。平民計佐(ケーサ)と士族6名も1~5年の懲役刑に処せられたが、死罪者はなかった。
下地の亡骸は、派出所警官が引き上げ、県が嘆願して政府から下賜された埋葬料25円、遺族扶助料90円をもって那覇の寺院に改葬された。さらに1921年(大正10年)、弟である下地利及は、移送して宮古島の一族の墓に再葬し、生家脇に事件を記した墓碑を立てた。周辺の者が事件の詳細を尋ねてきたが、彼はただ泣くだけで何も答えなかったという。
墓碑は戦災にも耐え、宮古島市西仲宗根の地に市指定史跡として残り、今なお観光客に無言の問いかけを続けている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 我部政男 『明治国家と沖縄』 三一書房
- 新川明 『異族と天皇の国家・沖縄民衆史への試み』二月社