セプター
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Emil Adamによる |
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性別 | 牝 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1899年 |
死没 | 1926年 |
父 | パーシモン |
母 | オナーメント |
生産 | ヒュー・ルバス・グローヴナー |
生国 | イギリス |
馬主 | ロバート・S・シービア →ウィリアム・バス |
調教師 | チャールズ・ノートン →ロバート・S・シービア →アレック・テイラー |
競走成績 | 25戦13勝 |
獲得賞金 | 38,225ポンド |
セプター(Sceptre、1899年 - 1926年)は、イギリスの競走馬。クラシック4勝(イギリス牝馬四冠)、ジョッキークラブステークス、チャンピオンステークス等に優勝し、25戦13勝の成績を残した20世紀初頭の名牝である。五大クラシック全出走の記録を持つ(2000ギニー1着、1000ギニー1着、エプソムダービー4着、オークス1着、セントレジャーステークス1着)。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 1899年(0歳)~1900年(1歳)まで
パーシモン(セントサイモン産駒の二冠馬)とオーナメント(イギリスクラシック三冠馬オーモンドの全妹)の間にイートン牧場で生まれる。生産者は大馬産家として知られる初代ウエストミンスター公爵ヒュー・ルバス・グローヴナーであった。この年の末、ヒュー・ルバスが死亡したため、貴族に義務づけられている遺産公開セールが翌1901年に行われた。そのセールの最後に出場されると、相続人である第2代ウエストミンスター公爵とロバート・シービアが競り合い、結果ロバート・シービアが従来のレコードを大幅に上回る10000ギニーの価格で競り落とした。
[編集] 1901年(2歳)
2歳になるとチャールズ・ノートンの厩舎に入厩。デビュー前の試走では古馬や期待馬デュークオブウエストミンスターに楽々先着する動きを見せていた。デビュー戦のウッドコートステークスを楽勝、2戦目ジュライステークスと連勝する。冬毛が生え、調子の悪かったシャンペンステークスは3着。
[編集] 1902年(3歳)
シービアとチャールズ・ノートンの仲違いによりセプターもノートン厩舎を追い出される。そこでシービア自ら調教を行うようになる。シービアには馬の調教経験が無かったが、順調に調整は進み、2000ギニーに挑戦する。ここでは牡馬の一線級が相手となったが、ピストル、デュークオブウエストミンスターを抑え1着となる。続く1000ギニーでは蹄鉄が歪み、シービア厩舎には装蹄士がいなかったので裸蹄で出走するもレコードで完勝。
セプターはエプソムダービーでも1番人気に推された。だが、入れ込んだうえ、騎乗ミスもあり2000ギニーで破ったアードパトリックの4着に敗れてしまった。わずか2日後のオークスでは3馬身差で快勝。そのままフランスのパリ大賞に遠征するもいいところ無く惨敗した。使いすぎが影響したとも、進路妨害を避け大外を回ったためとも言われている。さらにこの2日後にコロネーションカップに出走し5着、次の日にセントジェームズパレスステークスを1着と、エプソムダービー後のわずか1か月に5戦をこなした。
1か月の短い休養の後、復帰戦として2戦を消化しするとセントレジャーステークスに出走した。相手も薄く3馬身差で牝馬三冠と変則四冠を達成する。
[編集] 1903年(4歳)
そして4歳になると、リンカーンシャーHに出走する。馬主であるシービアはこの時お金に困っており、全財産をセプターに賭け、そして破産する。代わって25000ギニーでウィリアム・バス卿が購入し馬主となる。なお、この時までには3歳時の使い詰めの影響でセプターは消耗しきっており酷い状態にあった。セプターの調教はアレック・テイラーに任されたが、状態の立て直しにはなかなか苦労があったようである。その甲斐も有ってか初夏にはレースに出られるようになり、復帰初戦のハードウィックステークスを快勝する。
翌月行われたエクリプスステークスは、エプソムダービーでセプターを破ったアードパトリック、1歳下で後の三冠馬ロックサンドとの三強対決がで実現し大きな話題を集めた。直線この3頭が抜け出し、途中でセプターはロックサンドを交わすも、最後追い込んできたアードパトリックにハナ差交わされ2着に終わった。
アードパトリックには負け越したが、当時の最高賞金レースであるジョッキークラブステークスではロックサンドと再戦になり再びロックサンドに勝利する。続くチャンピオンステークスも10馬身差で圧勝し、セプターは再び大レースを連勝することで、エクリプスステークスを最後に引退したアードパトリックに代わって頂点に上り詰めた。
[編集] 1904年(5歳)
セプターは5歳になっても現役を続けたが、コロネーションカップで2着、アスコットゴールドカップを3着、そしてハードウィックステークス3着を引退レースとし現役を退いた。
[編集] 1905年以降(6歳~死亡まで)
引退後はウィリアム・バスの元で繁殖牝馬として供用され、メイドオザブミスト、メイドオブコリン等の活躍馬を輩出した。サマーヴィル・タタソールに買われ、ここではグローヴナーを出した。その後何人かの手を渡り歩く内ブラジルに渡りそうになったりしたが、その際に海外へ高齢のセプターが送り出されることを危惧したタタソール等が中心となってセプター基金が設立され、27歳まで生きた。
[編集] 死亡後、子孫
繁殖牝馬としては現役時代ほどの活躍はできなかったが子孫が活躍し牝系子孫はかなりの広がりを見せている。日本でも牝系子孫のスピードシンボリ、ダイナガリバーが活躍した。ファミリーナンバー16-h族はセプターとその姉妹スプレンディッドの子孫である。
[編集] 産駒
- メイドオブザミスト(ナッソーステークス、シェヴェリーパークステークス。繁殖牝馬として成功し牝系拡大、子孫にスピードシンボリ、ワシントンカラーなど)
- メイドオブコリント(2着 - 2000ギニー)
- コロネーション(牝系拡大、子孫にレリアンス、ランドパワー等)
- クイーンカーバイン(牝系子孫にペティション等)
- キュリア
- グローヴナー
- セプターズドウター
- クイーンエンプレス
[編集] エピソード、特徴
- 牝馬でありながら16.5ハンド(約168cm)という非常に大きな体高(肩までの高さ)を持っていた。
- シービアは名の知れたギャンブラーで、何度か競馬に大金をかけ話題をさらっている。破産後も強気な人生を送り、1939年に死亡するまで記者として毒舌をはいていたという。セプターはシービアの方針で当時の名馬としてはあり得ない程のレースに出走し、史上唯一のクラシック全出走等の記録を残した。
- 馬名は、王笏を意味する「Sceptre」が由来。貴族などの裕福な階級の出身ではなかったシービアが期待を込めて名付けた。
[編集] 競走成績
年月日 | レース名 | 着順 | 騎手 | 距離 | 着差 | 1着馬/(2着馬) | |||
1901年 | 6月 | エプソム | ウッドコートS | 1着 | 6F | ||||
7月 | ニューマーケット | ジュライS | 1着 | S.ロータス | 5.5F | ||||
9月 | ドンカスター | シャンペンS | 3着 | 6F | Game Chick | ||||
1902年 | 3月 | リングフィールド | リンカーンシャーH | 2着 | H.ランドール | 8F | アタマ | St.Maclou | |
4月 | ニューマーケット | 2000ギニー | 1着 | H.ランドール | 8F | 2馬身 | (Pistol) | ||
4月 | ニューマーケット | 1000ギニー | 1着 | H.ランドール | 8F | 1 1/2身 | (St.Windeline) | ||
6月 | 4日 | エプソム | エプソムダービー | 4着 | H.ランドール | 12F | Ard Patrick | ||
6月 | 6日 | エプソム | オークス | 1着 | H.ランドール | 12F | 3馬身 | (Glass Jug) | |
6月 | ロンシャン | パリ大賞典 | 着外 | H.ランドール | 3000 m | Kizil Kourgan | |||
6月 | アスコット | コロネーションS | 5着 | H.ランドール | 8F | Doctrine | |||
6月 | アスコット | St.ジェームズパレスS | 1着 | F.ハーディ | 8F | 1 1/2身 | (Rising Glass) | ||
7月 | グッドウッド | サセックスS | 2着 | F.ハーディ | 8F | 2馬身 | Royal Lancer | ||
7月 | グッドウッド | ナッソーS | 1着 | F.ハーディ | 12F | 4馬身 | (Elba) | ||
9月 | ドンカスター | セントレジャーS | 1着 | F.ハーディ | 14F132Y | 3馬身 | (Rising Glass) | ||
9月 | ドンカスター | パークヒルS | 2着 | 14F132Y | 1馬身 | Elba | |||
1903年 | 3月 | リングフィールド | リンカーンシャーH | 5着 | 8F | Over Norton | |||
6月 | アスコット | ハードウィックS | 1着 | F.ハーディ | 12F | 5馬身 | |||
7月 | サンダウン | エクリプスS | 2着 | 10F | クビ | Ard Patrick | |||
ニューマーケット | ジョッキークラブS | 1着 | F.ハーディ | 14F | 4馬身 | (Rock Sand) | |||
ケンプトン | デュークオブヨークS | 1着 | 10F | アタマ | (Our Lassie) | ||||
10月 | ニューマーケット | チャンピオンS | 1着 | F.ハーディ | 10F | 10馬身 | (Kroonstad) | ||
ニューマーケット | ライムキルンS | 1着 | 10F | 8馬身 | |||||
1904年 | 6月 | エプソム | コロネーションC | 2着 | 12F | 1馬身 | Zinfandel | ||
6月 | アスコット | アスコットゴールドC | 3着 | 20F | 1 3/4身 | Throw Away | |||
6月 | アスコット | ハードウィックS | 3着 | 12F | 5馬身 | Rock Sand |
[編集] 血統表
セプターの血統 (セントサイモン系/Pocahontas5×5=6.25%) | |||
父
Persimmon 鹿毛 1893 |
St. Simon 鹿毛 1881 |
Galopin | Vedette |
Flying Duchess | |||
St. Angela | King Tom | ||
Adeline | |||
Perdita | Hampton | Lord Clifden | |
Lady Langden | |||
Hermione | Young Melbourne | ||
La Belle Helene | |||
母
Ornament 1887 鹿毛 |
Bend Or 1877 栗毛 |
Doncaster | Stockwell |
Marigold | |||
Rouge Rose | Thormanby | ||
Ellen Horne | |||
Lily Agnes 1871 鹿毛 |
Macaroni | Sweetmeat | |
Jocose | |||
Polly Agnes | The Cure | ||
Miss Agnes F-No.16-h |
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