タイコンデロガ砦
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タイコンデロガ砦(タイコンデロガとりで、英:Fort Ticonderoga)は、現在のアメリカ合衆国ニューヨーク州ハドソン川峡谷にあるシャンプレーン湖の細い南端で、戦略的に重要な場所に作られた18世紀の砦である。ここからは少しの距離で、ジョージ湖の北端に着く。この砦は、イギリスのアメリカ植民地が支配したハドソン川峡谷とフランスが支配したセントローレンス川峡谷を結ぶ交易路を抑えるものであった。タイコンデロガの名前はイロコイ族の言葉で「2つの湖の間の土地」を意味している。タイコンデロガ砦を巡って約20年間に数度の戦いが繰り広げられた。
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[編集] 砦の建造
初めは1755年フランスが建造を始めたカリヨン砦であった。この名前は明らかに近くの滝の音楽的調べからきている(カリヨンは教会の塔などに設置された演奏可能なベルの組み合わせを指す)。建造は1756年から1757年にかけてゆっくりと進められた。当初の砦は歩兵の攻撃から守りやすい石造りであった。その目的は、シャンプレーン湖の南端を支配し、イギリスが湖に進出する足ががりとすることを防ぐことであった。
[編集] フレンチ・インディアン戦争中のタイコンデロガ砦
フレンチ・インディアン戦争の1757年、フランス軍はほぼ完成したカリヨン砦から、ジョージ湖の南にあったイギリス軍のウィリアム・ヘンリー砦に攻撃をしかけ成功した。部隊はレーヌ連隊であった。
[編集] 第1次タイコンデロガの戦い
詳細は第1次タイコンデロガの戦いを参照
1758年7月8日、ジェイムズ・アバークロンビー将軍指揮下のイギリス軍が、急ごしらえの砦の主障壁(まだ建造中だった)に正面攻撃をしかけた。アバークロンビーはフランス軍の防衛兵が少ないことに乗じ急速に攻め落とそうとした。このために野砲の力も借りず、16,000名の兵士の力に頼っていた。アバークロンビー軍はわずか4,000名のフランス軍に完璧に撃退された。この戦闘で砦は難攻不落の評価が立った(しかしその後の戦闘で攻撃を撥ね付けることは一度もなかった)。第42高地連帯(ブラック・ウォッチ)はこのカリヨン砦への攻撃で特にひどく損失を受け、スコットランドのダンカン・キャンベル少佐を含む伝説の発端となった。
北米インディアンの多くはこの時フランスと同盟を結んでいたが、その身のすくむような評判があったので、その日の終りまで大混乱の内に撤退するイギリス軍に、さらに追い討ちを掛けるように恐怖の波が襲ったものと考えられている。後にフランス軍の偵察隊は、武器が撒き散らされ、長靴が泥に埋まり、多くの傷者が担架の上に横たわったまま死んでいるのを発見した。実際にはインディアンはほとんど戦闘に参加していなかったし、多くは分遣隊としてフランスのボドルイユ知事がコーラーへあまり意味の無い派遣をしていた。インディアンに対する誤った指図について、撤退するイギリス軍を徹底的に叩き潰す機会を逃したとして、ボドルイユのライバルであったモントカームが非難の種に取り上げた。
[編集] 第2次タイコンデロガの戦い
1758年のフランス軍勝利の後は、冬期の間フランス軍とカナダの防衛軍はケベックやモントリオールを守るために西に移動していた。イギリス軍のジェフリー・アムハースト将軍は前回のような誤りを犯さないために、ジョージ湖から北に動き、砦への補給線を遮断しようとした。フランス軍は砦に残っていた勢力を保持したまま、ほとんど抵抗することなく1759年7月に砦を明け渡した。
フランス軍は撤退の道すがら、サン・フレデリック砦も破却した。この2つの砦を確保している間にアムハーストの部隊は遅れを生じ、ジェイムズ・ウルフ将軍が起こしたアブラハム平原の戦いに加われなかった。
このタイコンデロガ砦の攻略の時の7月25日に、ロジャー・タウンゼンド中佐がフランス軍の放った大砲の弾に当たり戦死した。タウンゼンドはアムハーストの友人だったので心より悼んだとアムハーストの日記に記している。タウンゼンドは、エドワード砦から出撃してきた有名なロジャース・レンジャーズを率いるロバート・ロジャースとも親しかった。タウンゼンドの死を悼む碑文がウエストミンスター寺院にある。タウンゼンドの兄がジョージ・タウンゼンド公爵(中佐)であり、2ヵ月半後のケベック包囲戦にジェームズ・ウルフのもとで参加した。
[編集] アメリカ独立戦争中のタイコンデロガ砦
[編集] タイコンデロガ砦の奪取
詳細は第3次タイコンデロガの戦いを参照
1775年5月10日、まだ眠っていた22名の守備兵がバーモントの小さな軍隊に眠りを覚まされた。その小さな軍隊はグリーン・マウンテン・ボーイズと呼ばれ、イーサン・アレンとベネディクト・アーノルドが指揮を執り、鍵も掛かっていなかった正門から徒歩で進入してきた。イーサン・アレンは砦守備隊の士官を呼び寄せ「偉大なるヤホバと大陸会議の名において降伏せよ!」と叫んだ。しかし、アレンの要求は副官に対するもので指揮官にではなかったし、他のだれもアレンがそんなことを言ったとは記憶していなかった。[1]多分偶然にだが一発の銃声が発せられた。植民地軍は大量の大砲と火薬を手に入れ、1776年の冬にかけてヘンリー・ノックスが300 km離れたボストンに運び、[[ボストン包囲戦]の役に立てられた。
1776年、イギリス軍はガイ・カールトン将軍の指揮で、カナダから反攻しシャンプレーン湖を下ってきた。大陸軍の大砲を載せたボートの寄せ集め艦隊がイギリス軍の歩みを冬まで留めた(バルカー島の戦い)。さらに翌1777年ジョン・バーゴイン将軍指揮下のイギリス軍が侵攻してきた。
[編集] サラトガ方面作戦でのタイコンデロガ砦
詳細はサラトガ方面作戦を参照
1777年、イギリス軍がカナダから南へ侵攻し、大陸軍をタイコンデロガ砦まで押し返し、続いて砦を俯瞰するデファイアンス山の頂上まで大砲を運び上げた。「ヤギが行けるところなら人間も行ける。人間が行けるなら大砲も持って行ける」イギリス軍のウィリアム・フィリップ少将がこの時に言ったことばである。
砲撃に直面して大陸軍のアーサー・セントクレア少佐は7月5日、砦を捨てた。バーゴインは翌日砦に入った。
大陸軍はシャンプレーン湖の反対側バーモントにあるインデペンデンス砦に撤退したが、直ぐにその砦も捨てて南のサラトガに向かった。バーモントのグリーン・マウンテン・ボーイズの指導者であるセツ・ワーナーは前年にも大陸軍がケベックからタイコンデロガへ撤退する際に殿軍を務めていたが、この時も勇敢にまた冷静にイギリス軍の追撃を食い止めた。ワーナー以外にもフランシスやティットコームといった軍人が防御戦で効果的な働きをした。ワーナーはバーゴインが送ったドイツ人傭兵部隊に側面を衝かれていなければ、イギリス軍の大軍を打ち破っていたかもしれない。この殿軍はハバードトンでも小競り合いを演じ、大陸軍のアーサー・セントクレア少佐がタイコンデロガの軍隊のほとんどを連れたままサラトガまで撤退する助けとなった。これが後にバーゴインを徹底的に打ちのめす伏線となった。殿軍を務めイギリス軍の歩みを遅らせたワーナーの部隊はその67%が帰還できた。
[編集] 砦の放棄とその後
サラトガでのバーゴインの敗北後、タイコンデロガ砦はその存在価値が無くなっていった。イギリス軍は1780年にタイコンデロガ砦とクラウンポイントを放棄した。
アメリカ合衆国の初期の歴史に登場したタイコンデロガ砦を記念して、アメリカ海軍にはタイコンデロガという名の5代の軍船が過去に存在し、航空母艦や巡洋艦の級(タイコンデロガ級)に名前が残っている。
ニューヨーク州タイコンデロガの町はジョージ湖のそばの砦があった場所を含んで今にある。砦は私有財産となって、1909年に復元された。今は観光地となり、毎年5月10日から10月遅くまで公開されている。
[編集] ギャラリー
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ Boller, Jr., Paul F.; George, John (1989).They Never Said It: A Book of Fake Quotes, Misquotes, and Misleading Attributions. New York: Oxford University Press.