タンネンベルクの戦い (1914年)
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タンネンベルクの戦い | |
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戦争: 第一次世界大戦 | |
年月日: 1914年8月17日から9月2日 | |
場所: タンネンベルク付近 | |
結果: ドイツの勝利 | |
交戦勢力 | |
ドイツ | ロシア |
指揮官 | |
パウル・フォン・ヒンデンブルク | パーヴェル・レンネンカンプ アレクサンドル・サムソノフ |
戦力 | |
210,000 | 150,000 |
損害 | |
20,000 | 死傷30,000、捕虜95,000 |
タンネンベルクの戦い(Schlacht bei Tannenberg)は、第一次世界大戦が勃発した1914年に、ドイツが東部戦線においてロシアを破った戦いである。
1914年8月17日から9月2日にかけて、ロシアの第1軍と第2軍、ドイツの第8軍によって戦われた。ロシアのパーヴェル・レンネンカンプ大将指揮下の第1軍は、ドイツのケーニヒスベルグを目指して、東プロイセンに侵入した。8月20日にドイツ軍の反撃を撃退し、初戦を有利に進めた。
東部戦線の司令官マキシミリアン・フォン・プリットヴィッツ大将は、東プロイセンを完全に見捨ててロシアに明け渡そうとしたため、解任された。エーリッヒ・ルーデンドルフ参謀長は後任として陸軍元帥のパウル・フォン・ヒンデンブルクを任命した。
ヒンデンブルクが向かっている間に、第8軍の参謀マックス・ホフマン中佐は軍を移動させた。ホフマンの計画は、東から向かってくるロシア第1軍に対しては、その進撃を遅らせるために最小限の軍を残し、 南から来るアレクサンドル・サムソノフ大将のロシア第2軍に兵力を集中させようというものであった。
ドイツのヘルマン・フォン・フランソワ大将の部隊は、ロシア第2軍の侵攻を意図的に許し、その補給線を断った。ロシア第2軍は、フロゲナウ近くの湖沼地帯で完全に包囲され、壊滅した。
ヒンデンブルクは、少し場所が違うが、タンネンベルク村近くで勝利という内容の至急電を送り、タンネンベルクの戦いとして世に知られるようになった。
この勝利により、ロシアの第1軍は東プロイセンから撤退した。これ以降、東部戦線においてロシアは防戦一方になった。
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