チャールズ・コミスキー
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チャールズ・コミスキー(Charles Comiskey,1859年8月15日 - 1931年10月26日)はアメリカの野球選手。 彼のファーストを離れて守り、投手にファーストをカバーさせるスタイルは現在でも高い評価を得ている。
1882年、AAのセントルイス球団に参加(のちにア・リーグ設立にも尽力。
1885年、アメリカ協会ではセントルイス・ブラウンズがこの年から4年連続リーグ優勝を遂げる。このとき全体を統率していたのはコミスキーだった。
1901年、アメリカンリーグが正式にナショナルリーグに並ぶメジャーリーグであると宣言。
1919年、コミスキーが球団オーナーを務めていたホワイトソックスの選手たちが八百長事件を起こした 尚、シカゴ・ホワイトソックスの本拠地U.S.セルラー・フィールドは以前90年以上もコミスキーパークと呼ばれていた。
[編集] 性格
かのブラックソックス事件はコミスキーの吝嗇癖が原因だといわれている。以前からコミスキーは洗濯代を惜しんで黒く汚れたユニフォームを選手に着させていた。そのせいでチームは事件前から「ブラックソックス」と呼ばれていた。選手が勝手にクリーニングに出したら罰金を取ったこともあるという。
セミプロでさえ年に5000ドル稼いでいた時代に、選手には多くても6000ドルしか支払わなかった。ディッキー・カーという選手は、この薄給に業を煮やしてセミプロに移籍した。そのため彼は球界を永久追放になってしまった。
一番ひどいケースは、ブラックソックス事件にも関わったエディ・シコットである。シコットは1917年には28勝してチームをリーグ優勝に導いたのに3500ドルしか貰っていなかった。1919年、彼は更改時に粘って、30勝したら5000ドルのボーナスをもらえるというインセンティブ契約を結んでいた。張り切った彼は、シーズン終了まで残り3週間というところで29勝をあげた。するとコミスキーは、「ワールドシリーズのために温存する」として彼をプレーさせなかったのである。
これらのエピソードが物語るとおり、ブラックソックス事件に関わったものが全面的に悪いとは必ずしもいえないのである。
[編集] 参考資料
ブルース・ナッシュ、アラン・ズーロ「アメリカ野球珍事件珍記録大全」東京書籍、1991年
カテゴリ: アメリカ合衆国の野球選手 | 1859年生 | 1931年没