デカンショ節
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デカンショ節(でかんしょぶし)は、兵庫県篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる民謡であり、学生歌としても広く歌われた。
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[編集] 歴史
江戸時代から篠山市域で歌われていた「みつ節」が変形したものであると伝えられている。大正時代には、デッコンショ節などとも呼ばれていたようだが、次第にデカンショ節という名称に収斂していった。
デカンショ節が学生歌として全国に普及したきっかけとして、以下のような伝承がある。
旧篠山藩主の青山家は、明治維新後は学問を奨励し、篠山に鳳鳴義塾等の私立の中学校を作り、その中の優秀な者は東京に寄宿舎を作り遊学させた。
篠山からの遊学生は、例年、夏には千葉県の八幡の浜で過ごしていた。明治31年(1898年)の夏、宿泊先の江戸屋の二階で元藩主青山忠誠の子青山忠允をはじめとする篠山出身の若者達が郷土の盆踊り歌を蛮声を張り上げうたっていた。それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員達がこの歌を聞きとめ、たちまち気に入ったという。
そこで、一高水泳部員達は、篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校教授)などから歌の指導をうけ、意気投合した。そして、東京に戻ってからも歌ったのであった。これによって多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まった。また、デカンショ節の歌詞の多くを亘理章三郎が作成したという伝承もある。
篠山市域での盆踊り歌は、みつ節が衰退し、播州音頭などが中心になっていた。そこへ学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入される。
戦後は、観光資源としてデカンショ祭をはじめとして積極的に利用されるようになる。これによって、現代ではデカンショ節は篠山市を代表する民謡となっている。
[編集] 歌詞
デカンショ節は学生歌として広く歌われていたこともあって、さまざまな歌詞が創作され伝わっている。また、デカンショ節の節回し(七・七・七・五、都々逸に同じ)にさえ合うならば、どのような歌詞の創作も可能である。
デカンショ節は学生歌という経歴を持つことから、かけ声の「デカンショ」は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという良く知られた説もある。他に「出稼ぎしよう」の意味であるなど、諸説ある。 兵庫県篠山市ホームページのデカンショ節考によると、 篠山町七十五年史で上記の「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという説が正しいであろうと述べていることからこの説が有力だろうと考えられる。 ただし、篠山町百年史では、様々な説があるが、デカンショという言葉は掛け声にすぎないとして この説を推しているわけではないので注意が必要。
現在、篠山市域で広く歌われている歌詞は以下のように丹波の風物をよみこんだものである。
デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
[編集] 参考文献
- 前川澄夫『デカンショ節考』(丹波古陶館、1981年)
- 篠山町史編集委員会編『篠山町百年史』(篠山町、1983年)
[編集] 外部リンク
- デカンショ祭 兵庫県篠山市ホームページ内