トグス・テムル
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トグス・テムル(Tögüs-Temür, ? - 1388年)は、モンゴルの大ハーン。モンゴル語の尊号はウスハル・ハーン。漢字表記は脱古思帖木児で、即位当時に立てた元号から天元帝と言われることもある。北元時代3番目の君主で、クビライ以来続いてきた元朝の王統から出た最後のハーンとなった。
前ハーンのアユルシリダラの弟とも子とも言われる。1378年、アユルシリダラの死とともにハーンに即位し、天元と改元した。トグス・テムルが即位したとき、元を北に追いやった明はそれでもせいぜい江南に加えて華北と高原の南辺を抑えたのみで、まだ依然として精強な北元の勢力は明と充分に戦える状況にあった。当時の北元の支配領域は東西は中国東北(満州)からモンゴル人の本土であるモンゴル高原のほとんど全土を保持しており、しかも中国の甘粛や雲南にはモンゴルの王族や貴族が残留して明と対峙していた。
1387年、トグス・テムルは東北方面に勢力を持つジャライル部のナガチュが明の北伐を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年にホロンボイル地方のブイル・ノールで明の将軍藍玉と戦って大敗した。この戦いで北元はトグス・テムルの皇后をはじめ8万と言われる多数の軍民を捕虜とされてほとんど壊滅する。
トグス・テムルはカラコルムを目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つアリクブケ系統の王族・イェスデルの襲撃を受け、残軍もほとんど壊滅してしまった。トグス・テムルはわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、ついに殺害された。トグス・テムルには二人の男子がいたが、長男の天保奴(ティポヌ)は父とともに殺害され、ブイル・ノールで捕虜となった次男の地保奴(ティボヌ)は明によって琉球に流されたため、北元のクビライ王統はここに一旦断絶した。
トグス・テムルを殺害したイェスデルは自らハーンに即位するがその王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入る。
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