モンゴル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンゴルは遊牧民族。蒙古(もうこ)。現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区をあわせたものにほぼ一致する地域、モンゴル高原を中心に、内陸ユーラシアに居住する。モンゴル諸語のモンゴル語を母語とする。 人口は、大雑把には、モンゴル国に200万・内モンゴル自治区に400万・ロシアのブリヤート共和国に20万。(詳細:モンゴル国では人口約253万3,100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)。中国に約1,000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)であるが、中国のモンゴル族は牧畜を行わず都市に居住する割合がかなり多く、モンゴル語を話せなくなった人も少なくない。ロシアのブリヤート共和国にも約20〜30万人ほど)
主な宗教はチベット仏教で、文化的にチベットとの関わりが深い。
目次 |
[編集] 分布
モンゴル人のハルハと呼ばれる集団に属する。前近代からモンゴルを自称としている人々のうち、ハルハ以外の集団では、中華人民共和国が内蒙古自治区として区分するモンゴル高原の南部地方に居住するものが多い。内モンゴルをはじめとする中国領内の各地に住むモンゴル人は、中国語では蒙古族と呼ばれ、中国の少数民族のひとつに数えられている。
新疆ウイグル自治区の北部のジュンガリア地方、青海省、チベットのダム地方などには、15世紀頃から清統治下の時代までモンゴルとは別の部族連合を形成していたオイラトの末裔が居住している。彼らオイラトの末裔は、モンゴル国の西部や内モンゴルの西部にも分布しているが、いずれも民族分類上はモンゴル民族・モンゴル族に含めるのが普通である。
ロシア連邦構成国の中にも、モンゴル系のカルムイク共和国、ブリヤート共和国がある。カルムイク人は17世紀初頭にボルガ河畔に移住したオイラト系の集団で、モンゴル国の北に分布するブリヤート人には、二十世紀初頭の中国からの独立運動や社会改革運動に参加したものが多い。
その他、中国にはダウール族、トンシャン族、バオアン族、トゥ族などモンゴル諸語に属する言語を話す少数民族がいる。中国人民政府による民族区域自治では「蒙古族」とは別個の独立した民族とされたが、ダウール族のように、モンゴルの一員としての民族意識を持つ集団もある。
[編集] 歴史
[編集] チンギス・ハーン以前のモンゴル
モンゴルの名をもった集団が最初に歴史上に現れるのは7世紀のことで、中国の記録に室韋の一派である「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などという漢字をあてられ、モンゴル高原の東端に住むに過ぎない小集団であった。金末期頃に東部蒙古の大勢力部族であった韃靼(タタル)族は同系統であったという。後のモンゴル帝国の時代にまとめられた『元朝秘史』や『集史』に記録された始祖説話から、北東アジアの森林地帯の人々と北アジアの草原地帯の人々が混ざり合って部族を形成したらしいと考えられている彼らは、遊牧民契丹の王朝遼が、もともと狩猟民でモンゴル高原への強い影響力をもてない女真の金によって滅ぼされ、高原に権力の空白が生まれた11世紀頃には、モンゴル高原の中部から東部にかけて広がっているモンゴル諸語を話す諸部族のうちのひとつであった。
やがて、権力の空白を突いて成長し始めたモンゴル部族は、ウリヤンハイ部族やジャライル部族などを隷属させるようになり、12世紀の中頃にチンギス・ハーンの曽祖父にあたるカブル・ハーンを最初のハンに推戴して国家らしいまとまりを形成し始めた。ここでいう「部族」にあたる、遊牧民の寄り集まった政治体のことをモンゴル語でウルスといい、モンゴル部族はモンゴル・ウルスと称していた。カブル・ハンの死後、モンゴル部族の突出を警戒した金の策動により第2代ハンのアンバガイはタタル部族によって捕らえられて処刑されるとモンゴルの統一は揺らぎ、次の第3代クトラ・ハンを最後にモンゴル部族にはハンが立たなくなって、モンゴル・ウルスは12世紀後半には分裂の危機に陥った。ハンの称号を持たず、キヤト氏族の一首長に過ぎなかったチンギスの父イェスゲイ・バートルは、タタル部族と盛んに戦って勢力を広げ、モンゴルの再統一を進めつつあったが、チンギスが幼い頃に若くして死んだ。『元朝秘史』はタタル部族に毒殺されたとしている。
[編集] モンゴル帝国の形成
イェスゲイの死後、一時は支配下の部民に見放されるなどの苦労を重ねつつタタル部やタイチウト氏、ジャダラン氏などのモンゴル部内の敵対勢力と戦って独力で勢力を築き上げたチンギスは、やがてモンゴル部族の大部分を統合してそのハーンとなっていた。この力を背景にチンギスは、1203年に高原中部のケレイト、1205年に高原西部のナイマンを滅ぼし、南部のオングト、北東部のオイラトなどの諸部族を服属させてモンゴル高原の全部族を統合し、1206年に大(イェケ)モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝国を築いた。これ以降、モンゴルはもともとモンゴル・ウルスに所属した遊牧民のみならず、チンギス・ハーンとその子孫の歴代ハーンの統治する大モンゴル・ウルスに集った全ての部族の総称に転化する。
モンゴルは、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアの各地に広まったが、中央アジアやイラン、キプチャク草原では先住の遊牧民であったテュルク系諸民族が大多数を占めたために、言語的にはテュルク化し、宗教的にはイスラム化して、モンゴル高原に残ったモンゴルとの民族的な繋がりを失っていった。
[編集] モンゴル帝国以降のモンゴル
モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国(元)がモンゴル高原に北走して北元となった後、北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト部族を中心に新しい部族連合を形成した諸部族の二大集団に分かれた。後者はモンゴル語でドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタタールと呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、清代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する。
北元期のモンゴルは、オイラトや明、中央アジアのイスラム化モンゴル人であるカザフやモグールと抗争しつつ独立勢力として存続したが、モンゴルは17世紀に相継いで満洲人の清に降り、またオイラトを支配したジュンガル部族が18世紀に清に滅ぼされるに至って、ほぼ全てのモンゴル系部族が清の支配下に入った。
20世紀の初頭に清が崩壊すると、北方から侵食してきたロシア帝国の影響を強く受けるようになり、ロシアが共産主義革命を経てソビエト連邦となると、もともと清の支配が比較的緩かった外モンゴルのハルハ諸部族がソ連の影響の下で中国から独立して、共産主義のモンゴル人民共和国を建てた。これが現在のモンゴル国となる。一方、内モンゴルの諸部族は中国の領内に残り、現在の内モンゴル自治区となった。また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともなって蒙古族の民族籍を与えられ、再びモンゴル民族の一部とみなされるようになった。モンゴルの遊牧民が居住に使う移動式天幕住居をモンゴル語でゲルと呼ぶが、内モンゴル自治区では公用語が中国語であるため、パオ(包)と中国式に呼ばれる例も多い。
[編集] 関連項目
- オノン川
- ブリヤート
- カルムイク
- モンゴル関係記事の一覧