ドイツ農民戦争
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ドイツ農民戦争(ドイツのうみんせんそう)は1524年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱。
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マルティン・ルターの「95ヶ条の論題」から始まった宗教改革は、ドイツのあらゆる階層に深刻な影響を与えた。ローマ教皇と結ぶ神聖ローマ皇帝の集権化に反発する諸侯はルター派に転じ始め、没落しつつあった騎士たちは教会領を没収して勢力を回復しようとする反乱を起こし(騎士戦争)、教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民も各地で反乱に立ち上がった。
ドイツ農民戦争は、1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民反乱から始まった。彼らは賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて各地の農民に呼びかけたため、蜂起はシュヴァーベンから東南のチロルへ、東北のチューリンゲン・ザクセンへと広がっていった。この農民反乱に直面した諸侯たちはシュヴァーベン同盟を結成して、農民軍の鎮圧にあたった。諸侯軍は4月、ライブハイムで農民軍を襲い、1000人の農民を虐殺してドナウ川に投げ捨て、その後も各地で農民軍を各個撃破していった。
[編集] トマス・ミュンツァーの反乱
農民反乱が最も激しく戦われたのは、フランケン地方の北のチューリンゲン地方であった。その中心都市がミュールハウゼンで、この都市を拠点に農民反乱を指導したのが聖職者のトマス・ミュンツァーであった。ミュンツァーはルターの宗教改革運動に関わったが、次第にルターの考え方-現存する権力と秩序を認める-に批判的になり、「地上における神の国」の実現を求めるようになった。ミュンツァーは、農民だけでなく鉱山労働者にも呼びかけ、彼らの参加を得て農民軍を強力な軍隊に組織し、諸侯・領主を完全に排除し、蜂起者による共同社会(「地上の神の国」)を実現することを説いた。6000人に膨れ上がった蜂起軍は、諸侯の城塞、教会、修道院を次々に襲撃していった。
ルターははじめ、反乱に立ち上がった農民に同情的であったが、このトマス・ミュンツァーに指導される反乱が始まると、これを厳しく非難し、諸侯たちに徹底的に鎮圧するよう勧告した。ルターに激励された諸侯軍は、1525年5月、ミュンツァー軍と決戦を行った。その大半が槍や鎌しか持たない農民軍は勇敢に戦ったが、大砲で武装した諸侯軍の敵ではなく、徹底的に粉砕された。ミュンツァーは捕らえられて拷問された上処刑された。こうして、ドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになった。一方、勝利した諸侯勢力は、勢力を強めて各地で割拠し、ドイツはその領邦的分裂をさらに強めることになったのである。
このとき南ドイツの農民はルター派から離れ、現地ではカトリックが主流となった。
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