ローマ教皇
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ローマ教皇(ローマきょうこう、羅De Romano Pontifice、英Pope、伊Papa)は、キリスト教の一大教派であるローマ・カトリック教会の最高位聖職者であり、政治的にはバチカン市国の国王(元首)である。ローマ法王ともいう(日本国外務省は、こちらを用いる)。
カトリック中央協議会はローマ教皇と呼ぶようにマスコミや官庁に申し入れをしている。
現在の教皇は、ベネディクト16世(在位 : 2005年4月19日 - )。
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[編集] 称号
敬称として「聖下」または「パパ (Papa)」などがある。これらの名称のほかに「バチカン市国の元首」「カトリック教会の最高司教」「西欧の総大司教」「イタリアの首座大司教」「ローマ管区の首都大司教」「ローマ教区の司教」「キリストの代理者」「神の代理人」「使徒の頭の後継者」「全カトリック教会の首長」などの称号で呼ばれることもある。自称としては「神のしもべたちのしもべ」ということがある。
教皇(あるいは法王)という呼称は、ギリシア語のpappas、ラテン語のpapa(または同様の西洋語)の対応語であるが、後二者は元来いずれも「父」を指す単語に過ぎず、古代においては、ローマ総大司教(総主教)およびアレクサンドリア総大司教のみにこの敬称が使用されており、現在でもコプト正教会・東方正教会ではアレクサンドリア総主教に教皇または「パパ」の称号を用いる。教会史家エウセビオスは、パパの称号はアレクサンドリアで3世紀頃用いられたのがはじめだとしている。
日本のカトリック司教団では、長年混用されてきた教皇および法王の二つの呼称を、 1981年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機に「ローマ教皇」に統一することにし、これを一般にも促している。一方で、「法王」の呼称の方がメディアで頻繁に用いられるため馴染みがある、また「きょうこう」とも「きょうおう」とも読める訳語が適切とも思えない、などといった反対意見もある。
なお、日本国政府としては、呼称として「ローマ教皇」でなく「ローマ法王」を使用し、敬称は「聖下」でなく「台下」(だいか)を使用しているものと考えられる。
- 教皇就任時やクリスマスなどの際に外交儀礼として天皇から祝電、見舞電報や弔電を打つ場合、日本の官報の皇室事項には、たとえば教皇ヨハネパウロ2世死去に際しては「天皇陛下は、ローマ法王ヨアンネス・パウルス二世台下逝去につき、四月三日同法王代行エドゥアルド・マルティネス・ソマロ枢機卿猊下へ御弔電を発せられた」と報告され、教皇ベネディクト16世選出に際しては「天皇陛下は、四月二十四日ローマ法王ベネディクトゥス十六世台下の就任式につき、同月二十三日御祝電を発せられた」と報告されている。
- 東京にあるバチカン市国の大使館の日本語名称は「ローマ法王庁大使館」とされ、2005年4月の教皇逝去に際しての大使館の声明も「駐日本法王庁大使館臨時代理大使」名で発せられている(バチカンにある日本国大使館は「在バチカン日本国大使館」)。
日本のカトリック教会の見解については、以下リンク参照。
- 「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい? カトリック中央協議会
[編集] 歴史
[編集] 古代:ローマ司教座の権威の確立
初代キリスト教会の使徒ペトロ殉教の地・墓所としてローマは聖地の一つであり、ローマ教会は古くから歴史的に尊重されてきた。またローマ帝国最大の都市であるローマには早くから信徒集団が確立し、その長であるローマ司教は早い時期に教会内で一定の権威をもつ存在となっていた。
3世紀頃、北アフリカ地域(エジプト、リビア)の教会で首位にあった「アレクサンドリア教会」の司教を「教皇」(パパス、ギリシア語で「父」の意)と呼ぶことが始まり、じきに他の主要な教会に波及した。ラテン系地域の教会で首位にあった「ローマ教会」の司教もそのひとつである。
4世紀にコンスタンティヌス帝が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に移した後は、教会行政の中心が帝国の東側に移行した。そして、帝国行政の要地に位置する5つの教会がとくに権威あるものとして確立してきた。教会の区域分けが帝国管区を踏襲し、その首府に位置する5つの教会が教会行政の中心として確立したのである。そしてこの5つの教会の序列が問題となった。東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノポリス教会の司教(総主教)は序列第二位とされ、ローマは序列第一位となった。また教皇の称号は、ローマ司教とアレクサンドリア司教(序列第三位、東方)の二司教に帰すものとされた。そしてこれらの5教会の司教には「総大司教」(総主教)の称号が与えられた。
6世紀末、時のローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人の間に盛んに布教を行い、西欧各地の教会を支配下に治めて、勢力を拡大した。また西ローマ帝国滅亡後は、東ローマ帝国皇帝が名目上は西ローマの支配権をもっていたものの、ローマ司教に行政を委託し、広範な自治権を与えた。このため「ローマ教会」は東ローマ帝国皇帝に対して独立の地位を獲得していった。このため西方教会では、ローマ教会の総大司教のみを「教皇」と呼ぶようになる。特にカルケドン公会議以降の西方では、新約聖書のマタイによる福音書第16章に、イエスが12使徒のうち最初の弟子であるペトロに残した「あなたはペトロ (Πετρος)。わたしはこの岩 (πετρα) の上にわたしの教会を建てる。」(マタイ16:18。『新共同訳聖書』日本聖書協会より引用)の言葉が、ローマ総大司教をペトロの後継者として権威を高めるために強調された。一方、東方ではアレクサンドリア司教(主教)をも教皇と呼ぶ習慣は残り、現代まで続いている。
[編集] 西方と東方の分離
西方教会が独立性を獲得する一方で、東方の東ローマ帝国および東方教会との文化的・政治的・宗教的亀裂も増していった。この亀裂は8世紀以降、争点を変えつつ顕在化し、ついに1054年東西教会の分裂(大シスマ)といわれるキリスト教世界の分裂に至る。
首都の移行後まもなく西方のラテン系地域の西ローマ帝国が滅んだ後、西方のローマ教会は、6世紀の東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世がイタリア半島を再びローマ帝国領にしたため東ローマ帝国の皇帝の支配・庇護下に置かれていたが、徐々に東ローマ皇帝やコンスタンティノポリス教会と、教義や文化、教会の主導権をめぐって対立するようになる。
統一ローマ帝国の後継者を自認する東ローマ帝国はアレクサンドリアを首位とする北アフリカ地域、アンティオキアを首位とするシリア地域、そしてローマを首位とするラテン系地域の教会の分離を阻止するのに苦心した。北アフリカやシリア地域の教会は単性論問題のとき、分裂が決定的となる。しかし、別のギリシャ系の司教を即位させることで、この問題を克服しようとした。
そして、ラテン系のローマ教会とは6世紀頃の三章問題や7世紀の単意論、8世紀の聖像破壊問題、9世紀のフィリオクェ問題とそれによる「フォティオスの分離」などで慢性的な不和が相次ぎ、1054年に「ローマ教会」と「コンスタンティノポリス教会」の両司教座が相互破門するに至った。ただし、これは司教座間の相互破門に過ぎず、東西教会の破門ではないというのが、両教会の一般的理解である。東西分裂の和解が試みられたものの、分裂は15世紀に決定的なものとなった。この原因として、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻撃、陥落させたことや、東西合同会議フィレンツェ公会議の後にローマが約束した軍事的支援を怠ったことによってオスマン帝国にコンスタンティノポリスを攻め落とされた(1453年)こと、また地中海沿岸の政治的状況にあまり関係がなく、かつ宗教的に保守的なロシア正教会が東西和解に反対したことなどが考えられる。ただし相互破門状態においても教皇使節のコンスタンティノポリスへの派遣・コンスタンティノポリス総主教座からの大使派遣は行われており、和解のための交渉は継続的にもたれて来た。なお相互破門は20世紀半ばに解消されている。
[編集] 中世以降
分裂以後のローマ教皇の影響力は当然ながら西方教会の内部に限られる。しかしそれは同時に、西方教会という制約においてローマ教皇が「神の代理人」として隔絶した宗教的権威を確立していく道程でもある。
中世から近代にかけて、ローマ教皇は単なる宗教的権威であるだけでなく、イタリア中部を中心に広大な領地「ローマ教皇領」を領有する一領主でもあった。ローマ教皇は神聖ローマ帝国などとの世俗権力との対立も歴史的に抱え込んだ。これには聖職叙任権闘争のような宗教政策の対立と、ローマ教皇領の領主としての教皇が他の諸侯ともつ世俗的対立がある。世俗権力との対立は、中世末期から、アヴィニョンへの教皇庁移転(アヴィニョン捕囚)のように教皇庁側の全面的な譲歩に終わる様相を多々見せるようになる。世俗権力への妥協は、時に別の勢力の離間を招いた。そのような離間に、あるいはマルティン・ルターの離脱があり、また神聖ローマ皇帝カール5世の叔母キャサリン・オブ・アラゴンとイングランド王ヘンリー8世の離婚許可(婚姻無効宣言)を出さなかったことによるイングランドの離間とイングランド国教会の創設がある。
また世俗権力との関係においていえば、中世から近世初期まで、教皇職への就任に、教会内の対立のみならず、世俗権力の意向が濃く反映することがあったことが指摘される。またネポティズムとよばれる縁者や庶子の重用も中世末期から近世初期に関しては広く行われた。
16世紀半ば、トリエント公会議に代表される対抗宗教改革は、プロテスタントへの巻き返しであると同時に、そのような長年の制度疲労を腹蔵した教会の刷新でもあった。
中世後期から、ローマ教会では、教会における最終的な決定権がローマ教皇にあるのか(教皇首位説)それとも公会議にあるのか(公会議首位説)が議論となった。いったん公会議首位説が承認されたこともあったが、宗教改革以降の情勢下で事実上教皇首位説が主流となっていった。19世紀半ば、第1バチカン公会議は教皇首位説を正式にカトリックの教義として採択した。またこのとき、教皇不可謬説も教義として採択された。教皇不可謬説は今日、他のキリスト教会がローマ教会との一致に際してあげる最大の難点のひとつとなっている。こうした近代前期に顕著な教皇庁の保守的傾向は、近代的な思想、とりわけ自由主義などへの反動でもあり、また政治勢力としての教皇庁の退潮の裏返しであるとも考えられる。
[編集] 近代以降
19世紀、ローマ教皇領は二度にわたり消滅をみた。これはローマ教皇のヨーロッパ政治における勢力としての退潮を決定的に示すものといえよう。
ナポレオン1世に消滅させられた教皇領は、ウィーン会議で復活した。しかし近代国家誕生の激動の中、19世紀半ばに始まるイタリア統一運動(リソルジメント)により縮小させられ、1870年のイタリア王国の成立とローマ占領により完全に消滅した。以降、数代の教皇は自らを「バチカンの囚人」と呼んでイタリア政府との交渉を拒否した。しかし、ピウス11世の時代にイタリア政府とバチカンの間での和解が模索され、ラテラノ条約によってその実を結んだ。
1929年のラテラノ条約によって成立した世界最小の独立国バチカン市国は教皇庁がイタリアから独立していることを示す象徴的なものであり、教皇領という意味合いのものではない。
ローマ教皇庁は現在ペトロの墓所として古来巡礼の地であったバチカンにあり、コンスタンティヌス大帝が進呈したとされるサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ大聖堂)が建てられている。一方、ローマ教会の司教座は、これもコンスタンティヌス大帝が献じたとされるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂におかれている。
世俗領主としては儀礼的な権力をとどめるのみとなったローマ教皇は、依然、キリスト教界最大の教派の指導者として、信徒のみにとどまらない広範な影響力をもっている。とくに1960年代の第2バチカン公会議以降、歴代の教皇は、他教派、他宗教との対話の姿勢を打ち出しており、その動向が注目される。
[編集] 選出方法
選出方法の歴史的変遷および詳細はコンクラーヴェを参照
現在の教会法では教皇職は終身だが自発的に退位できることになっている。辞任が自由に発意され、正しく表現されていれば有効であり、だれからも受理される必要はないと教会法は定めている。公式に教皇が退位を表明すると、使徒座空位が発表される。実際には、自発的に退位した教皇は1294年に退位したケレスティヌス5世以外にはない。
ローマ教皇の死去時には、かつては教皇庁の国務長官が教皇の洗礼名を3度呼び、教皇のひたいを銀の槌で打つなど教皇の死亡を確認するための儀式がおこなわれていた。教皇が死去すると首席枢機卿が教皇帰天と使徒座空位を発表する。教皇の印章「漁夫の指輪」(インタリオリング―指輪型印章)は死亡の際に破壊処分される。
教皇は教皇選挙権を持つ80歳未満の枢機卿の投票により、カトリック教会の男性信徒(主に、枢機卿、大司教、主要教会の司教)の中から選出される。現行の教会法では、枢機卿の中から選出することが義務になっている。使徒座の空位が発表されて後、15日以上の余裕を待ち、かつ、20日以内に枢機卿はバチカンに招集され、秘密会議で議論と投票を行い、最終的に投票総数の3分の2を1票超える数以上の支持を得た候補者が教皇となる。新教皇が選挙結果を受託する儀式を行った後、助祭枢機卿の代表が新教皇を発表する。教皇の即位式ではかつては豪華な教皇冠の戴冠がおこなわれていたが、ヨハネ・パウロ1世の即位以降簡素化され、廃止されている。
[編集] 関連項目