ピルム
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ピルム(Pilum)は、主に古代ローマ軍団(レギオン)の歩兵が使用した投槍。複数形はピラ(Pila)。
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[編集] 歴史
ピルムを開発したのは、北イタリアのガリア人と戦っていたエトルリア人だったと考えられている。ガリア人の主装備は長剣と大盾であり、盾を失わせるために突き刺さるピルムは最適だった。紀元前4世紀頃、ガリアとの戦いを始めたローマは、このエトルリア人の武器を模倣した。ローマ軍団歩兵は軽装歩兵と重装歩兵に分けられていたが、ピルムは重量があり軽装歩兵の機動力を損なうため、重装歩兵が装備した(ただし、古参兵(トリアリィ)はピルムではなく、サリッサのような長槍と盾を装備していた)。重装歩兵は他に大盾(スクトゥム)と剣(グラディウス)を装備した。以降、この武装が帝政初期までローマ軍団重装歩兵の基本となった。
2世紀から3世紀頃、ローマの拡張が限界を迎え、国防政策が国境防衛と内乱鎮圧に重点を置くようになると、ローマ軍団も変化した。辺境の軍団では、異民族の侵入に即座に対応できるよう機動力のある騎兵が重視された。歩兵は騎兵に追従できるよう軽装になっていき、長剣(スパタ)と弓矢、軽量化されたピルムと盾が主装備となった。これに影響を受け、中央の軍団も徐々に辺境の軍団の様式へと変化していった。5世紀頃、西ローマ帝国が崩壊すると、ローマ式の重装歩兵は西ヨーロッパでは消滅し、ピルムも使われなくなった。
4世紀から5世紀頃、東ローマ帝国は軍制改革を行った。ペルシアや遊牧民の騎兵に対抗するため、カタフラクトと呼ばれる重騎兵を編成し、これを軍の主力と位置づけた。歩兵は騎兵を支援する存在となり、主装備は長槍と剣、弓矢となった。攻撃はカタフラクトが担当するため、歩兵は敵の攻撃を受け止める防御が役割となった。東ローマ帝国でピルムが完全に消滅した時期を確定することは困難だが、おそらく軍制が変化したこの時期だと考えられる。
[編集] 構造と性能
一般的なピルムは、木製の柄と鉄製の穂の合成品で、全長は約200センチメートルから150センチメートル、重量は約2キログラムから4キログラムだった。接合部の形状は、嵌め込み型と差し込み型の両方が存在した。鉄製の穂は、全長約60センチメートルから30センチメートルで、先端部分は三角形ないし菱形に作られた。時代が進むにつれて穂は細く軽量化されていった。一部の資料には破壊力を増すために鉛製の球が取り付けられたという記述があるが、現在のところそうした形状のピルムは発見されていない。近年の復元実験によれば、ピルムの最大射程距離は約30メートル。ただし、有効射程距離は20メートル以内だという。
復元実験の結果、ピルムの形状は装甲貫通能力を高められるように設計されていることがわかった。穂先の形状が三角形なのは盾を貫通しやすくするためであり、穂が長細くされていたのは貫通後に目標まで到達させるためだった。重たい木製の柄は、貫通力を増すためのウェイトだった。
時代が進むにつれてピルムの穂は曲がりやすくなるように改良されていった。盾を貫通した後に曲がれば、敵はピルムの突き立った盾を放棄せざるをえなくなるからである。盾を失わせれば、ローマ兵は白兵戦を有利に進めることが出来た。また、たとえ地面に落ちたとしても、曲がったピルムは敵によって再利用される心配がなかった。このようにピルムを改良したのはガイウス・マリウスとも言われているが、確実な証拠はない。
[編集] 戦術
共和政後期から帝政初期のローマ兵は、通常二本のピルムを携行し、うち一本は射程距離を伸ばすための軽いものだった。戦闘時、ローマ兵は敵前まで接近すると、まず軽いピルムを投擲し、次に重いピルムを投擲した。これによって敵の隊列を乱し、盾を失わせた後、グラディウス(あるいはスパタ)を抜いて白兵戦に突入した。二本を投擲する時間がない場合は、ピルムで白兵戦を行うこともあったという。このため、混戦時に手元を傷つけないように、柄の部分に小さなナックルガードを付けたピルムも存在した。また、ピルムで対処困難な場合は、後方の長槍を借りて難を凌ぐ時もあった。
[編集] 参考
なお、ウェゲティウスの記した盾に格納する投槍は、プルムバタ(Plumbatae)と呼ばれる投げ矢である。
[編集] 参考書籍
- エイドリアン・ゴールズワーシー(著)、池田裕、古畑正富(共訳)、『古代ローマ軍団大百科』、東洋書林
- エイドリアン・ゴールズワーシー(著)、遠藤利国(訳)、『図説 古代ローマの戦い』、東洋書林
- ニック・セカンダ(著)、鈴木渓(訳)、『共和制ローマの軍隊』、新紀元社