プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム
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プブリウス・コルネリス・スキピオ・ナシカ・コルクルム(紀元前141年没)。
父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、息子にはスキピオ・ナシカ・セラピオ。妻はスキピオ・アフリカヌスの娘。コルクルムの妻はアフリカヌスの娘の中でも年上の娘となる。
紀元前168年、ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスのもとでマケドニアに転戦、紀元前162年にコンスルに就任するが、吉凶でよくない兆候が出たのでその座を同僚とともに降りてしまう。紀元前159年にケンソルに、この時に元老院あるいは民会の承認なくして官職ある者の立像を建立する事を禁じている。紀元前155年に再びコンスルに当選、ダルマティアに出征して勝利をおさめる。紀元前150年には最高神祇官に就任、元老院の第一人者(プリンケプス)となる。そして同年には死去したものと思われる。
コルクルムは大カトーの政敵として知られ、第二次ポエニ戦争で敗北したカルタゴを滅亡させようと扇動するカトーに対して反論、潜在的なライバルを持たないローマは腐敗して衰亡すると論じた。